中島桃果子[クラムボンと猫]

2009年11月16日

第九回

「ミィキはね、もともとは娼婦ではなかったの」
 女は言いました。
「なんでもその、あたしに惚れちゃった男とミィキは幼馴染みだったらしくて、かけおちというかなんというか、まあそういうので一緒に村を出て、この街に来たらしいの。それで一緒に暮らしてたみたいなんだけど、男の子も若かったから、いろいろなことに好奇心があるじゃない。それで最初は遊び半分で店に来たのよね、カードゲームで勝っただかなんだかのお金を持って。まあ、若いっていってもいくつも変わらないけどね、年齢的には。でもあたしには随分幼く見えたわ。すれてないっていうのかしらね」
 その男の子とは、バスで一緒になったボタン屋の長男のことではないでしょうか。けれどもそれではどうも計算が合いません。
「それは最近の話ですか?」
 こうこが訊ねると女は答えました。
「いやいやもう二、三年前の話じゃないかしら?」
 話の道筋から考えると妥当な答えでしたが、こうこにとってはちんぷんかんぷんな展開です。
 これは同じような別のカップルの話なのでしょうか?
「それで彼、わたしに夢中になってしまったの」
 自慢でも謙遜でもない、事実だけを述べるのに丁度いいトーンでした。
「あなたは彼を好きにならなかったんですか?」
 飲み干したコップを窓枠に置いてこうこは訊ねました。西側の窓から陽が射しこんで、コップはきらきらと清潔に光っています。
「そんな都合のいいところで惚れている男、好きにならないわよ。若いがゆえの熱っぽさだったしね」
 蕾は少し笑うと、つけたしました。
「それにわたしは客に惚れたりしない。プロだから」
 言葉は、ほんの少しだけですが客に惚れたりしてしまうミィキのことを匂わせるようなところがありました。こうこは、少し大切な友人が見下されているような気持ちになりました。蕾の言葉に嫌味たらしいところはひとつもないのになぜでしょう。ミィキという人に会ったことすらないのです。
「都合のいいところってどういう意味ですか」
 こうこは話を戻しました。蕾は答えました。
「だってここには生活がないじゃない。そしてわたしたちは、隙間を埋める職業でしょ。そのわずかな部分だけを埋めるから、贅をつくしてというか、ある一種の虚構を作り上げてそれを保つことができるわけよね。たとえばわたしだったら、何でも包んでくれて、何にでも応じてくれる蕾ちゃんになれるわけよね。でもそれってある意味無責任な相手だからそうしてあげられるってところもあるでしょ。自分が添い遂げようと思う男と正々堂々渡りあおうと思ったらそんなことやってられないわよね。
 だいたいの場合は男の方が、かっきり、現実と、隙間とをわけたうえで遊んでいく。でも彼は若すぎてそれらが一緒くたになってしまったの」
 蕾は三本目のビールを飲み始めていました。
「仕事前にそんなに飲んで大丈夫なんですか?」
 蕾は笑いました。
「大丈夫、大丈夫。わたしお酒好きなの」
 言いながら蕾は隅のソファに、ごろんと寝そべりました。白く長い脚が、ふちから少しはみだしています。
 奔放で自由なひとだなあ。こうこは思いました。
 部屋の中の家具や、絨毯の類いなどは決して良い物ではありませんが、彼女はそれを上手に自分色に整えて、ともすれば「ここに住みたい」と思う女の子さえいそうな雰囲気です。こうこはなんども、蕾が娼婦であることを忘れそうになりました。
「ミィキさんはいつからここに?」
 こうこが訊ねると、蕾は思い出したように「そうそう」と言いました。
「あの子ね、乗り込んできたのよここに。自分の恋人が『蕾』という女に夢中になっているということをどこでだか仕入れて、自分も同じ店で働くことにしたのよ。彼が来たら入れ替わるように頼まれたわ」
 こうこは黙っていました。
「わからないでしょう? 恋人が夢中になっている女がいる、しかも売春宿で働こうと思うなんて。でも、ミィキというのはそういう女の子なのよ。危険ではある生き方だけど、ときどきそのまっすぐさをすごいと思うわ。羨ましいとまでは思えないけど」
 その後の話はわかりやすいものでした。
 蕾を指名した男のもとに、ミィキが出向き、なにがあったか分からないが、ふたりはそこで終わった。不思議とミィキは蕾に怒りの矛先を向けることはしなかった。すべてを失ったミィキは、住み込みで働きはじめ、最初についた客に惚れた。蕾に惚れていた男は、ミィキが同じ所で働いているにも関わらずしばらく通ったが、やがて他に夢中になれる女を見つけて店には来なくなった。ミィキについた最初の客はお金持ちで、ミィキは、別れた恋人の反動もあって随分その男に入れこんで店の外でも会ったりしていたが、ほどなく妻にばれてミィキは見切られた。その後、店の呼び込みの男とできてしまい、男は店をクビになった。次もまた店の呼び込みとできて、今度はばれなかったが、すぐに終わった。最近までまた、店の客と熱愛していたのだが、その男は、ミィキが寝ている間にいくばくかのお金を盗んでいなくなってしまった......。
 これらが蕾の話の内容でした。
 部屋は夕焼けに染まり始めていました。木でできた簡素なテーブルの上には緑の瓶が五本並んでいます。蕾は三回トイレにいきました。そして蕾の息子が買い出しから戻ってきて母親と二言三言話すと、外に飛び出して行ってしまいました。男の子の顔はあまり蕾に似ていませんでした。
「父親似」
 そう言ってきゅっと笑った蕾の顔は、今日こうこが見た中で一番愛らしいものでした。
 誰かを思う気持ちに乏しい。蕾はそう言っていましたが、決してそうではないように思えました。
「娼婦になるにはあまりに惚れっぽすぎたのね、あの子」
 蕾は一連の話を締めくくるように言いました。
「じゃあ今もそれで失踪を?」
 こうこは訊ねました。
「ああ。それは猫」
 さすがに少しろれつの回らない調子で蕾は答えました。
「猫?」
「あの子、猫飼ってるのよ。なんでも村から連れてきたのだとかいう猫で、ものすごく大事にしてるの。それが夕べいなくなっちゃって、もうそりゃあすごいとりみだしようでね。仕事すっぽかして出てったまま、まだ帰ってこないのよ」
 こうこには不思議に思うことがありました。
「彼女、クビにならないんですか?」
 蕾は笑いました。
「こういう仕事はね、そういうことすればするほど辞められなくなるのよ。罰金がかさんで、それを払い終えるまで辞められないの。ただ働き」
「そうですか」
 答えながら、またも心が沈んでいくのを止められませんでした。
「ね。ところで、なんだけど。あなた、ミィキとどういう関係なの?」
 蕾が思い出したように訊ねたそのときです。なにやら階下のほうが急に騒がしくなりました。雑音に混じって「ミィキ」という声が聞こえます。どうやら「ミィキ」が帰ってきたようでした。こうこは扉を開けて向かおうとしましたが、蕾は動きません。
「いいんですか?」
 こうこが訊ねると蕾は答えました。
「そう珍しいことじゃないもの。それにあたし、もう支度しなくちゃ」
 鏡台の前にちょんと座って、顔を作り始めた蕾を尻目に、こうこは階下に向かいました。

 どやどやと集まってきた幾人かの娼婦や呼び込みの男たち----こうこに「ミイキ」と声をかけたあの男もいましたし、蕾の息子もいました----の真ん中にいたのは、やはりというべきでしょうか。西勝寺のメス猫と呼ばれたあの少女でした。猫を抱いてけだるそうに佇むその様は紛れもなくあの少女ですが、長く垂らされていた茶色い髪は肩の上あたりで切りそろえられ、バスで会ったときと比べるとずいぶん華奢な印象をうけます。猫は子猫ではありませんでした。
 かつて西勝寺のメス猫と呼ばれた少女は、安否を気遣う同僚の声や、野次のようなもの、またぶつぶつと言葉にならないような言葉をこぼす店の男たち一切の音が耳に入っていないようでした。その様子は、なにかにうっとりとしたある種の恍惚のようでもあります。ふっくらしていた白い頬もすっきりとして、どこか挑発的な光が潜んでいた目は、やわらかく潤んで、朝日に照らされた冬の湖みたいでした。
 黙りこくったまま猫を抱いて女性はただ立っていました。こうこは人陰から見ていました。
「あのひとが見つけてくれたの」
 ミィキは、誰に言うともなしにそうつぶやきました。独り言のようでもありました。
 そして、遠巻きに覗いているこうこに向かって言いました。
「まだそこにいるわ」
 彼女は扉に目をやると、愛おしそうに猫を抱いて、階段を上っていってしまいました。集まっていた人々と喧騒が彼女を中心に、竜巻のように遠ざかっていきます。あっというまにひとりぽつんと取り残されてしまいました。
 こうこは、ミィキのつっかけを履くと扉をあけて外に出てみました。
 外にはあの男がいました。夢の中でこうこの夫だった男です。いつだったか大きなホームで、こうこに向かって、「誰がなんといおうと俺の子なんだ」といった男です。ホテルでは301の女の人を探していました。夢の中でこうこは、この男から逃げようとしたのではなかったでしょうか? 昨日あのアパートに帰ってくるはずだった男です。
 ただ、いつもは台所のはじに忘れられた、しなびたきゅうりのように褪せて乾いた男ですが、目の前の男の目はいつもほど澱んでいませんし、全体をまとう疲れや諦めのような空気もありません。けっして瑞々しい感じではありませんが、それなりに襟元を正して、若干の若さを残し、そこまで不健康そうでもありませんでした。
 男はこうこの顔を見ると、微笑んで頷きました。その顔を見たとき、こうこは身体に湿度がどっと流れこんでくるのを感じました。牛乳にひたしたパンのような、あるいは洋酒を多く含ませたスポンジケーキのような。
 ああ、この感じ、知ってる。
 確かこのような感触にとらわれたことが前にもあったはずです。
 自分が、自分ではない誰かに支配されていくような。肉体も、感情さえも。
 そしてそこまで考えたとき、この男について覚えていたはずのいろいろを忘れてしまいました。こうこは一瞬くらっとして、自分がどこにいるのか分からなくなりました。
「猫を見つけてくれてありがとう」
 気づいたら言葉が口をついてでていました。発音した言葉のつらなりはそうでしたが、心は「わたし、あなたを好きになりそう」と言っていました。
 どうしてでしょう。さっきはじめて会ったばかりなのに、彼のことを昔から知っているような気がするのです。愛しさも。哀しみも。こんな気持ちははじめてでした。
「唐突で失礼な話だが、君を買い取りたい」
 男は言いました。身なりはそれほど立派ではありません。
「僕は最近、愛した人を亡くしました。その喪失感を払拭できずに過ごしているときに君と会った。どことなく彼女に似ている君に。彼女も猫が好きでした」
 こうこは黙っていました。
「彼女が生きている間、僕は彼女に気持ちを伝えることもしませんでした。そのことを後悔しているところに君が現れた。突拍子もないことでとまどうかもしれませんが、何か行動をおこさずには居られない気持ちなんです」
 幸い、現在自分は店にそんなに多額の借金はありませんでした。貯蓄がすっからかんな程度です。素早くそんな計算をしてこうこは驚きました。そんなことなぜ知っているのでしょう。でも、走り出した気持ちは、身体の奥で蛇のように渦巻いて自分では止めることができません。
「わたしはあなたに賭けてみたいわ。あなたを好きになれるかどうかは分からないけど」
 心の奥は溶けてしまっているのに、こうこはわざとそんな風に言いました。ほんとうは彼に期待しているのに。何かを変えてくれるかもしれないと。ここのところ、お店の客や従業員と、たいした進展もない返し縫いのような恋ばかりしてきたのです。
 それにこのひとは猫を見つけてくれた。
 失った大切な過去を取り戻すように。
「ミィキ、いつまで遊んでるんだ」
 声が聞こえました。こうこは迷わず振り返り言いました。
「今日は働かないわ。そして明日、ここを出るの」
 店の方から慌しいいくつもの声が聞こえてきました。騒音の中でこうこは言いました。
「明日迎えに来て」
 その晩こうこは荷造りをしました。昨日と今日仕事をさぼった分は男がなけなしのお金をはたいて払ってくれました。
 荷物はたいしてありませんでした。
 飼っていた金魚を近くの川に逃がして、金魚を入れていたプラスティックの手桶はまだ新しいので持っていくことにしました。濃いピンク色の、象の絵が描いてある手桶で、夜店で買ったお気に入りでした。
 男が迎えに来て、こうこは店を去りました。蕾は部屋から出てきませんでした。彼女のせいで自分は恋人を失いましたが、いまとなってはいい思い出です。もっと他に彼女の顔を見たい理由がある気がしましたが、思い出せませんでした。
 男の住んでいる家は古いアパートの二階でした。外側の階段などは錆び付いて、一段上るごとにカンカン鳴りましたが、気になりませんでした。むしろ、どこか懐かしい音にさえ感じたくらいです。せまい畳の部屋も、部屋のわりに広くがらんとしたベランダも、どこかで見たような景色に思えたくらいです。
 狭い風呂場に湯船はありませんでしたが、はじっこにピンクの象の手桶を置きました。
 そして部屋着に着替えると、ワンピースをたんすにしまいました。殺風景な男物の上にちょんと置かれた赤や緑や黄色の花柄はにぎやかで、こうこは希望のようなものを感じました。
「わたしね、希望と同じだけの絶望を常にもってるの。でもいつも少しだけ絶望が勝つの。だから今度は希望が勝つのだとわたしに教えて」
 こうこは男に言いました。気を引きたくてわざと不幸なふりをしたのです。
 男は言いました。
「では結婚しましょう」
「希望と絶望、半分半分で、ほんの少しだけ希望が多いところから始めるなら、丁度いいと思いませんか?」
 男の言葉はけっして熱や情に浮かされた感じではありませんでした。
「惚れたはれたじゃないところでってことでしょう? そういうの好きよ」
 言いながらもう充分、こうこはこの男に惚れていました。ベランダではふたりをとりもった猫が、知らぬ顔をして毛づくろいをしています。
「いいわ。結婚しましょう。わたし、行き当たりばったりって嫌いじゃないわ」
 こうこは言いました。

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