中島桃果子[クラムボンと猫]

2009年12月14日

第十一回

 こうこは302の部屋に戻りました。
戻ってきたのか、そもそもここに居たのかよくわかりませんが、このホテルでは正真正銘れっきとした302号室の宿泊客なのです。
 301の女の人は行ってしまいました。切れ長の目の若い男が迎えに来て、ふたりはホテルを去りました。雨の中、寄り添うふたりの愛を象徴するように遠ざかっていく赤い傘を、301号室の窓からこうこは見送りました。赤は白黒映画の、そこだけカラーになった部分のようにひときわ鮮やかでした。
「さてと」
 夕飯にしようかね。メイドはそういうと階下に降りてゆきました。それでこうこもなんとなく自分の部屋に戻ってきたわけです。舌はまだ、赤い豆腐スープの水っぽい辛さを覚えていました。青年に抱きしめられたときに湧き上がった、行き場のない、それでいて温かい気持ちも。ですから当然、301の女の人を迎えにきた切れ長の若い彼のことを知っていましたが、どきどきしたり、懐かしく思ったりはしませんでした。知っている、という記憶の欠片があるだけだったのです。
「体調はどうだい?」
声が聞こえたかと思うと、扉が開いてメイドが入ってきました。あちこちでこのメイド似のおばさんと会うので、久しぶりという感じもありません。帽子屋のおばさんがメイドに似てるのか、またはボタン屋のおかみさんにメイドが似てるのか、もはやどうでもいいことでした。この人はこの人なのです。こうこの心臓の鼓動は溌溂として、重さやだるさはありませんでした。
「そういえば、悪くないです」
 メイドは台車を押して、こうこの前に夕食を運びながらいいました。
「そうだろう」
 その言葉は会話としてはちぐはぐでしたが、この場に一番ふさわしい返答のようにこうこは感じました。夕食はこうこの大好きなシチューです。ふかふかのパンがついていました。
「誕生日だからね」
 嬉しそうなこうこの顔を見てメイドは言いました。
「えっ。わたしですか?」
 正直いまがいつか分からないので、なんともいいようがありません。
「ともかく、おめでとう。ゆっくりするといいよ」
 メイドはそう言うと出て行きました。

 こうこは十二月生まれです。難産の末、深夜に生まれました。
その日、その冬最初の雪が降ったそうです。
朝になって、積もった雪にキラキラと反射する光を見た母の恋人が「ヒカリコ(光子)」という名前にしようと言ったのですが、母は「あまりに目立ちすぎる名前は波風のたつ人生になるからやめましょう」と言い、母の恋人が「じゃあ、『こうこ』というのはどう? みんなは気がつかないけれど実はひかりを意味しているんだ」と提案すると、母はたいそう気に入って、こうこはこうこという名前になったのです。こうこはずっと、母の恋人とは、すなわち自分の父親のことだと思い込んできましたが、実際はどうだったのでしょう。
「こうちゃんはひかりの子なのよ」
 生前、母はこうこによくそういいました。
 部屋はずいぶん冷えています。隅っこのスチームヒーターをひねりました。
 たしかにいまは十二月なのかもしれません。
 母親は夕海(ゆうみ)という名前でした。彼女の短い一生は波風の立つものだったのでしょうか。こうこは母をよく知りません。けれど彼女の一生は、短かったけれども夕日に帆をあげて、金色の海を気持ちのおもむくままに進んでいく一艘の船のように美しかったはずだと、なぜか信じられるのでした。
 こうこは窓を開いて、さっき赤い傘が遠ざかった道を眺め、ないはずの赤い傘を捜しました。雨はあがっていました。石畳の路はまだじっとりと濡れて、誰もいない街はしんとしています。
 スチームヒーターの蒸気だけが、ひゅうひゅうと音をたてて耳に届いてきます。
 この子が生まれたら、いつかこの夜のことを話してあげよう。ふとそんなことをこうこは思いました。
自分の子供に伝えたいことは、きっともっとたくさん、愛とか優しさとか、不安とか悲しさとか、ひとりで生き抜いていく術とか、いろいろあるはずですが、それよりも今日の夜のことを話してあげたい、とこうこは思いました。よく冷えた夜の空気や、スチームーヒーターの音や、遠ざかっていった赤い傘や、ほくほくのじゃがいもが入った温かいシチューのことを。
そして、このことをいつかあなたに話したいとおもったことを。
きしきしと鳴るホテルの窓や、クリーム色の電球のことを。
空のお皿を乗せた台車を扉の外に出すと、こうこは絨毯敷きの階段を降りてみました。
がらんとして誰もいないロビーに、古いシャンデリアだけが優しく点いていました。
来たときは気がつきませんでしたがフロアの隅にピアノがありました。大理石の床によく映える、キャラメル色のアップライトピアノです。蓋を開けてみると、鍵盤はつるりとして甘い音がしました。おそらく二弦の古いピアノなのでしょう。八八鍵、ちゃんとあります。
腰をおろして本格的に弾くことにしました。無口なこうこにとって、黙っていつまでも弾いていられるピアノはとても性に合っていました。
楽譜があるものを覚えて弾くよりも、気分にまかせて、旅をするようにピアノを弾くのが好きでした。
思いを乗せてこうこはピアノを弾きました。二弦のピアノの甘く柔らかい音は、深夜の冷えたロビーに、響き渡るというほど尖った感じではなく、優しく空気をふるわせて届きます。
音色に乗って、金色の船や夕焼けの海、赤い傘やスチームヒーターの水蒸気が、静かな夜に溶けていきました。
ピアノを弾き終えても、ロビーは閑散としていました。
「思い出ってあやふやなものよ」いつかそう言った女の子や、みゅーんと鳴いた子猫に、ここに降りてくれば会えるような気がしていたのですが、彼女たちは現れませんでした。
今日はどこにいってもひとりきりです。部屋に戻ろうと階段に向かうと、ぱたんぱたん、と聞き覚えのある乾いた足音がしました。はっとして振り返りましたが、それは自分の足音が壁に反響して後ろから聞こえてきただけでした。足元はまた、シンデレラの靴です。透明のゴムで出来た平たい底の。
 絨毯敷きの階段を音もなく上がり部屋に戻ると、けたたましく電話が鳴りました。
誰から? 思ったときには重たい受話器を耳にあてていました。
「なにやってんだい。急いで来ておくれよ」
 声から察する限り、電話の相手はシチューを運んできたお尻の大きなメイドです。何やってんだいと言われても、何も頼まれていません。急いでと言われても、何をすればよいかわかりません。
「とにかく、ホテルの前に車をよこしたから、それに乗って急いで来とくれ。ひとりじゃ足りないし、大事なところにさしかかってるからね」
 メイドは一方的にそう言うと、がちゃり、と電話を切りました。こうこは静かに受話器を置きました。黒い電話は小さく、チン、と鳴りました。
「そうそう、それから暖かい格好をしてくるんだよ。おまえさんもおまえさんでアレだからね。ぱんつは二枚だよ」
 メイドの言った通り厚着をして下着を二枚はいて、再びこうこはロビーに降りました。
 302号室のクローゼットには、ふかふかのコートと手袋、暖かいマフラーと毛糸のぱんつが2枚、ちゃんと準備されていました。厚手の靴下とブーツも。シンデレラの靴を置いていくことがどうしてもできなかったので、コートの右側の大きなポケットに入れました。
 ホテルの扉の前には黒いぴかぴかの車が止まっていました。こうこがそれに乗り込むと、車は音もなく走り始めました。運転手の顔に見覚えがありましたが、帽子を深く被っていた上、こうこには何も話しかけなかったのでわかりませんでした。
「元気な子を産むんだよ」
 運転手が口を開いたのはこうこが車を降りるときです。こうこはある予感がありました。
 301の女の人が赤ちゃんを産むのではないかという予感です。運転手が古い病院の前で車を止めたときに予感は確信に変わっていました。ですから一瞬、男の言葉が自分に向けられたものだということがわかりませんでした。
「えっ」
 男はもう一度こうこに向かって言いました。
「元気な子を産むんだ」
 その濁った目は、どこか懐かしいような、さきほどまで何度も見たようなそんな郷愁を含んでいました。錆びた階段のアパートに住んでいた、いつか大きな駅のホームでも会ったことのある男ではなかったでしょうか? こうこはただ黙ってうなずきました。こうこの顔もマフラーで隠れ、互いの目と目だけが暗い車内に浮き上がっていました。こうこは一瞬自分が鏡を覗いているような気分になりました。夜中にふと起きて、夜の更け具合を確認しようと窓を覗くと、そこに映る自分の顔は、そんな目をしているような気がします。
 男は古い病院の、明かりが灯っている一室を遠めに眺めながら、最後にこう言いました。
「誰がなんと言おうと、あれは俺の子なんだよ」

 病院では案の定、切れ長の目の彼が待合室の前をいったりきたりしていました。
 さっき301の女の人と、遠くに消えていった男です。若い彼はこうこを見つけると、
「もうずいぶん苦しんでいるんですけど、まだ産まれなくて」
 と言い、そのあたりを一層うろうろし始めました。若い彼の声を聞いてか、バタンと扉が開きメイドが顔を出しました。メイドというより産婆のいでたちでした。
「遅いよ、はやく、はやく」
 こうこは上着を脱いで病室に入りました。
 中では、301の女の人が青い顔をして苦しんでいました。
「この子心臓が弱いからね、これ以上かかると厳しいんだよ」
 メイド、いや産婆はそう言いました。産婆に「お湯」だの、「そっち側にまわって」だの、「タオルとって」だの、言われるままにこうこはてきぱきと動き回りました。
 若い男も外で待っていられなくなったのか、緊張した面持ちで、ばたばたと入室してきました。
「消毒して! これ着て!」
 産婆に言われるがままに支度をして、今では301の女の人の手を握っています。
「そばにいるから」
 若い男にそう励まされて、301の女の人は弱々しくうなずいていました。緊迫した空気の中でも、それはとても美しい景色に見えました。
「ほら! もうひとがんばり! 命を産むんだから苦しくてあたりまえなんだよ。みんな一緒だから気持ちしっかりもつんだよ、ちゃんと元気に産みおとしてあげるんだよ」
 産婆は励ましながら、こうこに小声で「この子は身体が弱いことを人一倍不安に思ってるから、あんたも勇気づけて」と言いましたが、なんと声をかけていいのかわかりません。こうこはただ彼女の背中をさすり続けました。
「そのとき」は、刻一刻と近づいていました。
 若い男はずっと手を握り、ときに髪をなで、ひたすらに励まし続けていました。
 301の女の人も、青い顔はしていましたが、もう不安がどうのとかいう次元を通りこして、懸命に戦っていました。赤ちゃんが生まれてくるのです。それを産み落とすことが母親の使命なのです。懸命に頑張る301の女の人の顔は、もう「それはみんなにとって不幸なことかしら」と訊ねた弱々しい女性の顔つきではありませんでした。彼女はいまここで母親になるのです。古い病院の一室で、ひとつの命が生まれようとしていました。みんながひとつになって、その誕生を一心に待ち望んでいました。
 
その子がこの世に生まれたのは深夜の三時三十三分でした。
 病室にいた全員が誕生に湧きました。みんな、真冬なのに汗びっしょりでした。
 関心を一心に集めていることも知らずに、主役は初めて吸う世界の空気に驚いて、「おぎゃあおぎゃあ」と泣いていました。
 若い男もまた目を真っ赤にしていました。
「元気な女の子だよ」
 産婆の声にも、肩を震わせてうなずくばかりです。
「めそめそしてないで、父親なんだから。しっかりしとくれよ」
母親として大先輩の産婆だけが、あっけらかんと笑っています。
301の女の人はすっきりとした優しい顔をしていました。
「生まれてきてくれてありがとう」
 彼女が赤ちゃんを抱きしめてそう言ったとき、なぜかその言葉が自分に向かって発せられたような気がして、こうこの胸が、きゅぅとしました。いままでのひょうひょうとした人生の中で、味わったことのないような強い気持ちでした。
 病室の外に出て、大きく息を吸い込むと、ぽたりぽたりと大きな涙を粒を床にふたつほど落として、こうこは走りはじめました。伝えなくてはならない人がいます。そのひとはきっと待っているはずです。すぐそこで。
 息を切らして走りながら、こうこは自分がだんだん小さくなっていくのを感じました。気持ちも大人のそれから、ずっとシンプルでストレートなものに変わっている気がします。大人なら息が切れたら歩けばいいのです。けれどそういう選択肢は思い浮かびませんでした。
 はあ。はあ。
思った通り、黒い車はまだ病院の前にありました。小さくなったこうこに、車の扉は目の高さです。運転手は顔の上に帽子をのせたまま座席を倒して寝ていました。こうこは思い切りどんどんとドアを叩きました。男はすぐに起き上がってドアを開けました。こうこは大声で報告しました。
「生まれたよ」
「そうか」
男はそう言うと、こうこの頭をくしゃくしゃと撫でて笑いました。この男がこんな風に笑うのをこうこは初めてみました。こうこも嬉しくて男に抱きつきました。男はこうこをひょいと抱き上げると、今宵明かりのともった、たった一つの病室を遠くから静かに眺めました。
 十二月の寒い夜でした。ふと見上げると、雪が降り始めていました。
「どうりで寒いはずだな」
 男とこうこは、降りしきる雪のなか、いつまでも病室に灯った明かりをながめていました。見上げたこうこの目や口の中で、大きなぼたん雪がいくつも溶けていきました。

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