中島桃果子[クラムボンと猫]

2010年01月04日

第十二回

 ふと陽射しを感じてこうこが目をあけると、あたりは明るくなっていました。男の腕の中でいつのまにか眠ってしまったようです。音もなく降りつづけたぼたん雪は、うそのように消えていました。空は水色に澄んで、地面は白く乾いています。
「起きたか」
 男はそういうと、こうこを地面に降ろしました。心なしか、抱き上げられたときよりも自分が小さくなっている気がします。何か言おうとしましたが、言葉が出てこず、口から出たのは「あうあう」という声だけでした。そのときです。
「そこでなにしてるの?」
 細い悲鳴にも似た声が聞こえ、目の前に301の女の人が立っていました。
「アヤメ」
 男は301の女の人に声をかけました。
「どうして......?」
 彼女は自分の方にこうこを抱き寄せると、おびえたように男を見ました。男は黙って車のドアを開けました。いつのまにか車体は色褪せて、あちこちがへこんで埃だらけになっています。明らかにメイドが寄こした車とは違うものでした。
「帰ってきたんだ」
 みゅーん、という鳴き声がして、車のなかから出てきたのは猫でした。
「でもそれ、子猫だわ」
 301の女の人はおそるおそる言いました。
「でも、あれの子なんだ」
 そう言うと男は子猫を301の女の人に渡しました。
「君に渡してあげたくて。僕はもう行くから」
 立ち去ろうとした男に、301の女の人は尋ねました。
「どうしてここに? わたしはもうこの街には住んでいないのよ?」
「でもここだと思ったんだ」
 男は振り返らずに痩せた背中で答えました。くたびれた後ろ姿が遠ざかっていくのを301の女の人はずっと眺めて、最後に誰にともなくこう言いました。
「わたし、ほんとうの名前は夕海っていうのよ」
 こうこは何か言おうとしましたが、まとまって声になったのは「マンマ」というひとことだけでした。ふと我に返って微笑むと女の人は言いました。
「そうね。帰りましょうね」

 こうこの手をひきながら301の女の人は終始無言でした。こうこはただ歩くことが大仕事でしたので、あまりいろいろなことを考える余裕がありませんでした。母親の手さげの中でときおり子猫が、みゅーんと鳴いていました。
 バス停に着くと、ひとつ前のバスが発車するところでした。こうこと301の女の人の5メートルほど先で扉は閉まり、バスは発車してしまいました。バスを見送ったとき、301の女の人に、何か異変が訪れたようでした。
「わたし、寄りたいところがあるの。ちょっとだけつきあってね」
 彼女はこうこを抱き上げると、くるりと踵を返し、もときた道を歩きはじめました。
 病院の前を通りすぎ、ひなびた繁華街を抜け、辿りついたのは、あのアパートでした。
 慣れた足取りで乾いた階段をカンカンとのぼり、ドアの前でこうこを降ろすと、301の女の人はそっとドアノブに手を伸ばしました。おそらく彼女が思っていたとおり、鍵はかかっておらず、難なくドアは開きました。
 こうこの目に飛び込んできたのは宙に浮く男の足でした。そして何も見えなくなりました。
301の女の人が手でこうこの目を覆ったからです。
「死んでるわ」
 彼女の声だけが耳に響きました。
「何もかもそのままにして、あの人、逝ったわ」

 最初にアパートに駆けつけたのは蕾でした。
 301の女の人は、なぜか蕾に電話をしたのです。手さげの中に入っていたらしきハンカチでこうこを目隠しすると、ぶらさがった男の足の横で、301の女の人は蕾に電話をかけました。電話をかけながらも彼女はこうこのことを気にしていましたが、こうこはおとなしく座っていました。身体は小さくなっても、記憶はそのままにありました。目隠しをされていても、折れそうに錆びたベランダの柵や、ぼたりと重い雲の下で貧しく揺れていた洗濯物を、ありありと思い出すことができました。持ち主を失って寂しく佇んでいる、ステンレスのミルク皿も。
 彼と一緒に、はらはらと降りてくる大きなぼたん雪をいつまでも見上げていたのは、ついさっきのことではなかったでしょうか?
「他に誰も思いつかなくて」
 蕾と一緒に売春宿の男たちも来ました。こうこに「ミィキ」と声をかけたあの男もいます。蕾は相変わらずしゅっとした足をしていました。
「こっちはとりあえず対応しておくから、ミィキは一度家に帰りな。この子のためによくないよ」
 301の女の人は心配そうに言いました。
「でもこのひと、身寄りなんてないの」
 蕾は乾いた階段を下りる301の女の人を勇気づけるように応えました。
「とりあえず、この部屋になんか手がかりないか探してみるし、いろいろやってみる」
「あのひと......。猫を渡しにきたの」
 もう何年も会ってなかったのに。
「自分を責めたりしないことだよ」
「わたし、ほんとうは夕海って名前なの。それも知らずにあのひと死んでった」
 蕾は強く優しい顔で「後で連絡する」と言いました。

 バスを乗り過ごしたり、乗り遅れたりしながら、ようやく家についたのは二時間後でした。
 くたびれた男のアパートよりはこぎれいな、オレンジ色の屋根の二階の一番奥の部屋が、こうこたちが住んでいる家のようでした。
「おかえり」
 そう迎えた若い男と301の女の人の間には、もはやあの病室の中で芽吹いていた絆のようなものはありませんでした。男はすぐに視線を戻すと荷造りを続けました。青年のようだった男も、一直線ではすまない気持ちをいくつか知った大人の男の顔をしています。
「あのひと」
 301の女の人のただならぬ表情を見て男は手をとめました。
「死んだわ」
 彼女はそれだけを言うと、奥のソファに座り込んで放心し、動かなくなりました。
 座り込んだ301の女の人だけが止まったまま、その奥で空は水色からオレンジに変わり、夕日は沈んでいきました。
 若い男はこうこをそっと抱き寄せました。
「今日は俺がごはんを作ろう」
 男はこうこにご飯を食べさせ、風呂に入れ、手さげから出てきた子猫に驚きながらもミルクをあげ、おそらく蕾からの電話にも対応しました。
 こうこは状況をもっと把握したかったのですが、なにせ小さな身体で一日動き回ったせいで、寝かしつけられると、今にも眠ってしまいそうでした。
 のれんの向こうで若い男が301の女の人と話しているのが聞こえました。
「ひととおり落ち着くまではここにいることにするから」
 ありがとう。か細い女の人の声を聞きながら、若い男もここにそう長くいないのだとこうこは感じていました。

 弔いをするために故人の知人が数人集まったのは二日後のことです。お葬式というほどのものではありません。慣わしに習えるほどの人も、お金もありませんでしたから、すべてが省略されていました。棺らしい箱が置かれ、お経を上げてくれるお坊さんを呼んだだけです。花は蕾があっちこっちで集めさせて、殺風景な空間を少し和らげていました。
 こうこは母親に連れられていました。若い男はこうこの参列を反対しましたが、301の女の人はがんとして譲りませんでした。それに301の女の人は喪服を着ていませんでした。彼女が着ていたのは、黄色と緑と赤が小さく花柄になっている、少し鮮やかなワンピースでした。その上に黒いカーディガンを羽織りました。ワンピースが何を意味するか気付いていたのはこうこだけですが、事情を知らなくても彼女の服装を責める人はいませんでした。ここに集まった人々は貧しくて、みな立派な喪服など持ってないのです。
 その女が現れたのは、弔いも終わりにさしかかった頃でした。喪服と呼ぶには派手すぎる黒光りするほどに高そうなドレスの上に、黒い毛皮のコートを着た彼女はまるでカラスのようです。
 黒いマスカラをふんだんにつけたまつげを少し震わせたあと、赤い唇が動きました。
「奥様はどちらにいらっしゃいますか?」
 301の女の人は少しとまどいながら答えました。
「わたしです。...もう三年前に別れましたが」
「わたくし綾乃と言います。故人とは幼馴染みでしたの」
 その言葉に驚いたのは、301の女の人だけではありません。
 綾乃と名乗る女は、男の話によると、301の女の人に似た雰囲気で、その上もう亡くなっているのではなかったでしょうか?
 301の女の人は何も言いませんでしたが、あきらかに動揺していました。
 そんな彼女をよそに、綾乃は甘ったるい香水の香りをふりまきながら、遺影に手を合わせると、涙ひとつこぼさず立ち上がり遺影に向かって言いました。
「来ましたからね」
 それはある種の脅迫のようにも聞こえました。綾乃は301の女の人にまとまったお金を渡すと、微笑んで帰っていきました。

「死んだことにしたかったのね」
 遺影を見ながら301の女の人はかつての夫に話しかけました。
 向こうでは、ちょっとした酒盛りが始まっていました。
「猫が好きだったっていうのは本当かしら」
 こうこを抱きすくめて、彼女はつぶやきました。
「わたし、アヤノの亡霊にとりつかれすぎていたのかしら」
 301の女の人はこうこを抱きしめながら初めて泣きました。
「わたしとあのひと、全然似てないわ」
 こうこもまた、男のことを思い出していました。男が作った薄くて辛いスープを。「元気な子を産むんだ」と言った濁った目や、初めて会ったとき「いいんだ、ここらへんにいるんだあいつは」と言った声の寂しいトーンを。
 綾乃が残していったまとまった金を眺めながら、二人おのおの思いをはせていると蕾がやってきました。
「そのお金、買うわよ」
 蕾はきゅっと笑うと、バッグの中から封筒を出しました。
「要らないんでしょ。わたしが買ってあげるわよ。それで不必要な分は燃やしましょう」
 煙草をふかしながら、ちょうどお葬式に必要な費用分くらいのお金を、蕾は301の女の人から買い取りました。
「これはあたしが一生懸命働いた綺麗なお金だから。大切につかってね」
 そう笑うと蕾は封筒を渡し、しょぼけた顔つきの301の人とこうこを外に連れ出しました。
「これは彼の代わりにミィキがやるのよ」
 301の女の人はおそるおそる、蕾から渡されたマッチに火をつけました。火は要らないお金に燃えうつりました。
 目の前でめらめらと紙幣は灰になっていきます。
 一枚、また一枚。
 ひとつ燃やすごとに301の女の人、いや母親は、何かひとこと言いました。
 わたしの本当の名前は夕海って言うの。
 わたし、最後の日、あのスープ全部飲んだのよ。
 わたし、今日、初めてあなたに出会ったときと同じワンピース着てるのよ。
 猫を届けてくれてありがとう。
 あのときあなたが抱いていた子は、わたしの子よ。
 そして父親はあなたよ。
 こうこって言う名前なの。
 わたしとあなたの子供の名前は、こうこって言うの。
 この世の最後の日に、あなたは娘を抱いたのよ。
 一枚、また一枚、紙幣は灰になり、灰と一緒に想い出や真実が空に舞い上がりました。

中島桃果子

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