第十三回
若い男が出て行ったのは、葬儀から一週間後のことでした。
亡くなったこうこの父親には身寄りがありませんでしたから、遺骨は301の女の人がひきとることになりました。火葬してから四十九日が済むまでの間は納骨ができません。もうすぐ出て行く男と小さなこうこと、301の女の人と彼女のかつての夫の遺骨という、おかしな同居生活が一週間続きました。遺影はありませんでした。
こうこは自分がどうやら二歳になったばかりらしいということを、301の女の人と若い男の間の会話で知りましたが、言葉が遅く依然として話せませんでした。
「いずれ嫌でも言葉を使わなくてはいけなくなるのよ。遅ければ遅い方がいいわ。言葉が連れてくるものなんて余計なものばかりだもの」
301の女の人の考えはこうでした。
若い男が出て行く前の日、301の女の人はごちそうを作りました。けして贅沢ではありませんが、お魚に煮物、炊きたての白米にお漬物、大根のお味噌汁と、若い男の好きな食べ物ばかりでした。まるで明日もこんな風に食卓を囲むみたいに賑やかに食事を終えました。
この家に来てからというもの様々な勝手の違いを、こうこは感じていました。小さな自分がいます。そして母親がいます。今は若い男も一緒にいます。この生活というのは、こうこが続けてきた旅の続きにあるものなのでしょうか? それとも今こうこは自分の記憶の深遠をさまよっているのでしょうか?
記憶はおかしなものです。たとえば夜、自分のベッドで寝返りを打った拍子に、小学校の廊下が鮮明に脳裏に浮かんできます。何年も思い出したことのない景色です。たとえばレモン色の石鹸を入れたみかんの網が、錆びた蛇口にぶらさがっている様。いびつに敷き詰められているひんやりとした流し台のタイル。
泡立てるのに苦労するこの石鹸で手を洗うのかと、その憂鬱でさえもありありとやってくるのです。でも、それはよくよく考えるともう二十年以上も前の出来事で、普段は脳の奥の方に仕舞われていることだったりします。
このアパートでの暮らしをこうこは全く覚えていません。けれども、食卓に並んでいるお皿の模様や、たくさんの調味料が載っている丸いお盆に、どことなく見覚えがあるような、そんな気がしないでもないのです。
お腹いっぱいご飯を食べて、母親のひざの上でうたた寝をしていると、こうこは「今が今」という気がしてきます。つまり、二十数年生きた自分が夢で、今ここでうたた寝をしている自分が正しい時間の流れの中にいるのだという感覚です。それほどに今、ここでこうこが感じている暮らしは、こうこにとってしっくりくるものなのでした。
「風呂に入ろうか」
若い男がこうこを抱きあげ、こうこは「うん」とうなずきました。眠たいけれど今日一緒にお風呂に入らないと、いつか後悔することを知っていました。
男はいつものように丁寧にこうこを洗うと、自分も洗い、一緒にせまい湯舟につかりました。しばらくの間、男は黙っていました。
「すまない」
若い男が喉の奥から絞り出すようにして発した言葉はそれでした。こうこは何か言いたいと思いましたが、声になったのは「ぱ」という言葉だけでした。
若い男は「ぱ」にハッとなると、「そうだな」と笑顔になりました。何もかもをぐっと飲み込んで、男はこうこの上気した頬を両手ではさむと言いました。
「こうこは、俺のことなんか忘れちゃうんだろうなあ」
若い男が出て行き、四十九日が明けると同時に納骨を済ませ、アパートの二階の奥の部屋でこうこと301の女の人ふたりの生活が始まりました。
「男はみんな風のように吹き抜けて行ってしまったわね」
納骨から戻ってきたとき、301の女の人はぽつりと呟き、こうこを優しく見ました。
「こうちゃんにはそんなことが起きないように魔法をかけておきましょうね」
そう言うと、自分の指先にキスをして、その指先をこうこの額に当てました。
「みゅーん」
ちょうどいいタイミングで鳴いたので、子猫も同じ魔法をかけてもらいました。最後の日に男が届けにきた子猫です。
「これであなたたちは大丈夫ね」
301の女の人は楽しそうに微笑むと、鼻歌をうたいながら台所に立ちました。301の女の人の履いているスリッパと、三つ折りの靴下を見ながら、この景色も記憶のどこかの引き出しに漠然と仕舞われている気がする、こうこはそう思いました。
たくさんのことが立て続けに起きて、301の女の人も男の人はしばらくいいと思ったようでした。
アパートは緑の屋根の四階建てでした。エレベーターはなく、入り口にある鉄製の階段が四階まで続き、各階とも六部屋が一つの廊下に並んでいました。廊下は屋外に面し、吹きっさらしでした。鉄の柵で囲われているだけだったので、風がぴゅうぴゅうと自由に出入りし、雨が降れば容赦なく廊下を濡らしました。
アパートの向かいにはスーパーがあり、毎日夕方になれば用事がなくてもスーパーに行きました。入り口にパン屋があって、こうこと301の女の人がふたりで訪れると、パンの耳とか、売れ残りのパンをオマケしてくれました。
一見順調に見えたふたりと一匹の暮らしですが、生活は厳しいものでした。若い男はわずかなお金を301の女の人とこうこに残して家を出ましたが、とうてい生活を続けていけるほどのものではありません。301の女の人は内職をすることにしました。仕事はカーペットのサンプル作りです。カーペット生地の裏表や上下、品番を間違えないように注意しながら見本帳に貼り付ける仕事です。性に合って楽しんでやっていましたが、もらえるお金で生活をするのがぎりぎりです。
手作業に疲れると、301の女の人はよく「吹き抜けた風」の話をしました。つまりは吹き抜けた男たちの話です。一緒に村を出たボタン屋の長男の話や、猫を見つけてくれたこうこの父親の話、お金を盗んでいなくなった男の話や、妻がいた大金持ちの話。最後に、こうこの名前をつけてくれた若い男の話。301の女の人がこうこに伝えたくて話しているのか、それとも自分自身に確認の意味で話しているのかはわかりませんが、いつも最後はこうでした。
「いつか消えてしまうとわかっていても、それを体と心に刻むことは価値のあることだわ。
それにわたしは雨傘のような女だったけど、ほんのひととき誰かの雨傘であったことを悔やんだりしたことはないの」
ただ、同じような人生をあなたに歩んでほしいかというと、それは話が別よ。
ここまで話すと301の女の人は必ず作業に戻りました。
周りが騒がしくなったのは、隣に男の人が引っ越してきてからです。
男の人が引っ越しの挨拶に来た日、こうこは手のひらにやけどをしました。チャイムの音に301の女の人が反応して目を離した隙に、こうこはバランスを崩して右手をちょんとストーブの上に置いてしまったのです。こうこにはもともと右手に薄くやけどの後がありました。小さな頃のものであることは間違いなかったのですが、体が小さくなったときに消えてしまいました。その消えた部分に正しくやけどはやって来たわけなのです。
「僕は医者です」
わずかに開いた扉の向こうで、バタバタする親娘を見かねて男の人は言いました。「失礼」と詫びながら、男の人は挨拶用に持ってきた菓子折りを靴箱の上に置き、こうこのやけどの具合を診て、冷水につけてくれました。その間に一度家に戻り、診察道具を持って戻ってくると、手際よく手当てをしてくれました。
「隣に引っ越してきました。豊富(とよとみ)です」
男の人が挨拶をしたのは、対面してから一時間も後のことでした。
トヨトミさんは、町に自分の診療所を開業したばかりとのことでした。
こうこがトヨトミさんを見ると、富田医院のことを思い出すのと同じように、301の女の人にとっても、トヨトミさんは置いてきた過去を思い起こさせる存在のようでした。
「こうちゃんのおじいちゃんはお医者さんなの。それでね、お母さんのお家は富田医院という診療所なのよ」
301の女の人は、まるで大事な秘密を打ち明けるかのように小声で話しました。
また、隣にトヨトミさんが引っ越してから、301の女の人はぴたりと「吹き抜けた風」の話をしなくなりました。
トヨトミさんはしばらくのあいだ、こうこの手を診るために部屋を訪れました。余計なことは言わない人でしたから、301の女の人も自分のことを話す機会がありませんでした。
トヨトミさんの生活も謎に包まれていました。もしかしたら他に大きなお家があって奥さんと子供はそこに住んでいるのか、あくまで独りもので、質素な暮らしを好んでいるのか、はたまた実は借金があるのか、全くわかりませんでした。
月曜日と水曜日の夕方には、トヨトミさんよりいくばくか若い、肌の白い女性が、スーパーのビニール袋片手にトヨトミさんの家を訪れ、次の日の昼前には帰ってゆきました。
女性は301の女の人と目が合うと、にこりと微笑んで会釈をします。301の女の人も笑顔でそれに応えていましたが、パタンとしまる扉を見届ける顔は「ふうん」という、あまり嬉しくなさそうな顔でした。けれども、あまり嬉しくないその出来事を含んでも、この一連の流れは、301の女の人にとって楽しいもののようでした。
こうこはこうこで、目に映るすべてが真新しく同時に懐かしいという、相反する体験の連続で忙しく揺れていました。たとえば、外の廊下の隅にある排水溝や、柵のさびのようなもの、柵の間から見下ろせる自転車置き場の屋根、手を伸ばしても届かない郵便受けや、歩いたときに目に入る小さな自分の靴すら、すべてが新しい出会いであると同時に仕舞い込まれた過去でもある気がするのです。おばさんがくれるパンの耳でさえも。それはデジャヴと呼ばれるほど心もとないものではなくて、思い切り寄り目にして覗くと飛び出してくる3Dの絵本の模様のように絶対的であって、絶対的すぎるゆえにそこには実はない物なのではないかと思わせるような、そんな奇妙な感覚なのでした。
ひとつひとつの行動を丁寧に確認して日々を過ごすこうこを、301の女の人はひとり遊びが好きな子なのだと解釈しているようでした。
そんなある日、雪が降りました。
こうこは買ってもらった真新しい毛糸の帽子に赤い長靴をはいて、廊下で遊んでいました。朝早く、誰も起きていなかったので、ふきっさらしのコンクリートの廊下にはうっすらと雪がつもって、ふかふかの雪景色でした。
「こうちゃん、一緒に足跡つけようか」
301の女の人に手を引かれて、こうこはよちよちと206の部屋から201の前まで歩き、とうとう転ばずに踊り場まで辿り着きました。
「ほら」
301の女の人は振り向いて、ふたりで歩いてきた足跡をこうこに見せました。ふかふかの、粉砂糖が積もったような白い廊下に点々とつく自分と母親の足跡を見たとき、こうこは、この景色をわたしは知っている、と強く思いました。
いま初めて見たのではない、思い出せなかっただけで、知っていたんだと。
色んな足跡がまざってみぞれみたいになってしまった踊り場も、自分の赤い長靴も、自分たちの部屋まで続くこの足跡も。「ほら」と言った母親の声も。そう思ったとき、こうこは泣き出してしまいました。
「どうしたのこうちゃん。何も怖くないのよ。ママとこうちゃんの足跡よ」
301の女の人の「どうしたの?」が耳の奥でこだまするなか、こうこはずっとめそめそ泣いていました。
301の女の人に運気が向いてきたのは、彼女が長い風邪を患ったあたりでした。
その2カ月ほど前から、トヨトミさんの部屋に女の人が訪ねてくることはなくなっていました。月曜日と水曜日だったのが月曜日だけになり、それが隔週になって、とうとう来なくなってしまったのです。
301の女の人は体が弱かったので、熱を出したりはしょっちゅうでしたが、一週間単位で寝込むということはこれまでありませんでした。
あまりに高熱が続いたので、トヨトミさんは、こうこを自分の部屋で寝かせ、301の女の人には薬を飲ませ、食事なども作ってくれていました。こうこを独りにはできないので、食事を作るときだけ、こうこも一緒に部屋に戻りました。
トヨトミさんがおかゆを作ってくれているときに、301の女の人はか細い声で、
「昔、一緒に暮らしていた男が一度だけ、わたしのためにスープを作ってくれたことがあるの」
と絶え絶えに言いました。正確には一緒に暮らしていただけではなく、男は301の女の人の元夫で、スープを作ったのも一度や二度ではありませんでしたが、ともかく301の女の人はそう言いました。
「そう、優しくしてもらったんだね」
トヨトミさんは、昔の男の話に逆上するような幼いタイプの男ではありません。
「別に優しかったわけではないの」
301の女の人が曖昧に否定すると、トヨトミさんは笑いました。こうこはその会話を座布団の上でうとうとしながら聞いていました。
「死んだの」
301の女の人は、ぽつりと言葉を漏らしました。こういうことを無計画に言う301の女の人にこうこはちょっとむっとしました。
「そうか」
トヨトミさんが変に同情しなかったことや、大げさに驚いたりしなかったことは、こうこにとって、トヨトミさんを評価すべき点でした。
「ともかく、食べようか」
この言葉もこうこは大変気に入りました。
ただ。
まもなく何かが始まるな。
目を閉じながらこうこはそんなことを考えていました。
米が煮つまっていく、甘く芳ばしい匂いが、湯気とともに部屋中にたちこめていました。
亡くなったこうこの父親には身寄りがありませんでしたから、遺骨は301の女の人がひきとることになりました。火葬してから四十九日が済むまでの間は納骨ができません。もうすぐ出て行く男と小さなこうこと、301の女の人と彼女のかつての夫の遺骨という、おかしな同居生活が一週間続きました。遺影はありませんでした。
こうこは自分がどうやら二歳になったばかりらしいということを、301の女の人と若い男の間の会話で知りましたが、言葉が遅く依然として話せませんでした。
「いずれ嫌でも言葉を使わなくてはいけなくなるのよ。遅ければ遅い方がいいわ。言葉が連れてくるものなんて余計なものばかりだもの」
301の女の人の考えはこうでした。
若い男が出て行く前の日、301の女の人はごちそうを作りました。けして贅沢ではありませんが、お魚に煮物、炊きたての白米にお漬物、大根のお味噌汁と、若い男の好きな食べ物ばかりでした。まるで明日もこんな風に食卓を囲むみたいに賑やかに食事を終えました。
この家に来てからというもの様々な勝手の違いを、こうこは感じていました。小さな自分がいます。そして母親がいます。今は若い男も一緒にいます。この生活というのは、こうこが続けてきた旅の続きにあるものなのでしょうか? それとも今こうこは自分の記憶の深遠をさまよっているのでしょうか?
記憶はおかしなものです。たとえば夜、自分のベッドで寝返りを打った拍子に、小学校の廊下が鮮明に脳裏に浮かんできます。何年も思い出したことのない景色です。たとえばレモン色の石鹸を入れたみかんの網が、錆びた蛇口にぶらさがっている様。いびつに敷き詰められているひんやりとした流し台のタイル。
泡立てるのに苦労するこの石鹸で手を洗うのかと、その憂鬱でさえもありありとやってくるのです。でも、それはよくよく考えるともう二十年以上も前の出来事で、普段は脳の奥の方に仕舞われていることだったりします。
このアパートでの暮らしをこうこは全く覚えていません。けれども、食卓に並んでいるお皿の模様や、たくさんの調味料が載っている丸いお盆に、どことなく見覚えがあるような、そんな気がしないでもないのです。
お腹いっぱいご飯を食べて、母親のひざの上でうたた寝をしていると、こうこは「今が今」という気がしてきます。つまり、二十数年生きた自分が夢で、今ここでうたた寝をしている自分が正しい時間の流れの中にいるのだという感覚です。それほどに今、ここでこうこが感じている暮らしは、こうこにとってしっくりくるものなのでした。
「風呂に入ろうか」
若い男がこうこを抱きあげ、こうこは「うん」とうなずきました。眠たいけれど今日一緒にお風呂に入らないと、いつか後悔することを知っていました。
男はいつものように丁寧にこうこを洗うと、自分も洗い、一緒にせまい湯舟につかりました。しばらくの間、男は黙っていました。
「すまない」
若い男が喉の奥から絞り出すようにして発した言葉はそれでした。こうこは何か言いたいと思いましたが、声になったのは「ぱ」という言葉だけでした。
若い男は「ぱ」にハッとなると、「そうだな」と笑顔になりました。何もかもをぐっと飲み込んで、男はこうこの上気した頬を両手ではさむと言いました。
「こうこは、俺のことなんか忘れちゃうんだろうなあ」
若い男が出て行き、四十九日が明けると同時に納骨を済ませ、アパートの二階の奥の部屋でこうこと301の女の人ふたりの生活が始まりました。
「男はみんな風のように吹き抜けて行ってしまったわね」
納骨から戻ってきたとき、301の女の人はぽつりと呟き、こうこを優しく見ました。
「こうちゃんにはそんなことが起きないように魔法をかけておきましょうね」
そう言うと、自分の指先にキスをして、その指先をこうこの額に当てました。
「みゅーん」
ちょうどいいタイミングで鳴いたので、子猫も同じ魔法をかけてもらいました。最後の日に男が届けにきた子猫です。
「これであなたたちは大丈夫ね」
301の女の人は楽しそうに微笑むと、鼻歌をうたいながら台所に立ちました。301の女の人の履いているスリッパと、三つ折りの靴下を見ながら、この景色も記憶のどこかの引き出しに漠然と仕舞われている気がする、こうこはそう思いました。
たくさんのことが立て続けに起きて、301の女の人も男の人はしばらくいいと思ったようでした。
アパートは緑の屋根の四階建てでした。エレベーターはなく、入り口にある鉄製の階段が四階まで続き、各階とも六部屋が一つの廊下に並んでいました。廊下は屋外に面し、吹きっさらしでした。鉄の柵で囲われているだけだったので、風がぴゅうぴゅうと自由に出入りし、雨が降れば容赦なく廊下を濡らしました。
アパートの向かいにはスーパーがあり、毎日夕方になれば用事がなくてもスーパーに行きました。入り口にパン屋があって、こうこと301の女の人がふたりで訪れると、パンの耳とか、売れ残りのパンをオマケしてくれました。
一見順調に見えたふたりと一匹の暮らしですが、生活は厳しいものでした。若い男はわずかなお金を301の女の人とこうこに残して家を出ましたが、とうてい生活を続けていけるほどのものではありません。301の女の人は内職をすることにしました。仕事はカーペットのサンプル作りです。カーペット生地の裏表や上下、品番を間違えないように注意しながら見本帳に貼り付ける仕事です。性に合って楽しんでやっていましたが、もらえるお金で生活をするのがぎりぎりです。
手作業に疲れると、301の女の人はよく「吹き抜けた風」の話をしました。つまりは吹き抜けた男たちの話です。一緒に村を出たボタン屋の長男の話や、猫を見つけてくれたこうこの父親の話、お金を盗んでいなくなった男の話や、妻がいた大金持ちの話。最後に、こうこの名前をつけてくれた若い男の話。301の女の人がこうこに伝えたくて話しているのか、それとも自分自身に確認の意味で話しているのかはわかりませんが、いつも最後はこうでした。
「いつか消えてしまうとわかっていても、それを体と心に刻むことは価値のあることだわ。
それにわたしは雨傘のような女だったけど、ほんのひととき誰かの雨傘であったことを悔やんだりしたことはないの」
ただ、同じような人生をあなたに歩んでほしいかというと、それは話が別よ。
ここまで話すと301の女の人は必ず作業に戻りました。
周りが騒がしくなったのは、隣に男の人が引っ越してきてからです。
男の人が引っ越しの挨拶に来た日、こうこは手のひらにやけどをしました。チャイムの音に301の女の人が反応して目を離した隙に、こうこはバランスを崩して右手をちょんとストーブの上に置いてしまったのです。こうこにはもともと右手に薄くやけどの後がありました。小さな頃のものであることは間違いなかったのですが、体が小さくなったときに消えてしまいました。その消えた部分に正しくやけどはやって来たわけなのです。
「僕は医者です」
わずかに開いた扉の向こうで、バタバタする親娘を見かねて男の人は言いました。「失礼」と詫びながら、男の人は挨拶用に持ってきた菓子折りを靴箱の上に置き、こうこのやけどの具合を診て、冷水につけてくれました。その間に一度家に戻り、診察道具を持って戻ってくると、手際よく手当てをしてくれました。
「隣に引っ越してきました。豊富(とよとみ)です」
男の人が挨拶をしたのは、対面してから一時間も後のことでした。
トヨトミさんは、町に自分の診療所を開業したばかりとのことでした。
こうこがトヨトミさんを見ると、富田医院のことを思い出すのと同じように、301の女の人にとっても、トヨトミさんは置いてきた過去を思い起こさせる存在のようでした。
「こうちゃんのおじいちゃんはお医者さんなの。それでね、お母さんのお家は富田医院という診療所なのよ」
301の女の人は、まるで大事な秘密を打ち明けるかのように小声で話しました。
また、隣にトヨトミさんが引っ越してから、301の女の人はぴたりと「吹き抜けた風」の話をしなくなりました。
トヨトミさんはしばらくのあいだ、こうこの手を診るために部屋を訪れました。余計なことは言わない人でしたから、301の女の人も自分のことを話す機会がありませんでした。
トヨトミさんの生活も謎に包まれていました。もしかしたら他に大きなお家があって奥さんと子供はそこに住んでいるのか、あくまで独りもので、質素な暮らしを好んでいるのか、はたまた実は借金があるのか、全くわかりませんでした。
月曜日と水曜日の夕方には、トヨトミさんよりいくばくか若い、肌の白い女性が、スーパーのビニール袋片手にトヨトミさんの家を訪れ、次の日の昼前には帰ってゆきました。
女性は301の女の人と目が合うと、にこりと微笑んで会釈をします。301の女の人も笑顔でそれに応えていましたが、パタンとしまる扉を見届ける顔は「ふうん」という、あまり嬉しくなさそうな顔でした。けれども、あまり嬉しくないその出来事を含んでも、この一連の流れは、301の女の人にとって楽しいもののようでした。
こうこはこうこで、目に映るすべてが真新しく同時に懐かしいという、相反する体験の連続で忙しく揺れていました。たとえば、外の廊下の隅にある排水溝や、柵のさびのようなもの、柵の間から見下ろせる自転車置き場の屋根、手を伸ばしても届かない郵便受けや、歩いたときに目に入る小さな自分の靴すら、すべてが新しい出会いであると同時に仕舞い込まれた過去でもある気がするのです。おばさんがくれるパンの耳でさえも。それはデジャヴと呼ばれるほど心もとないものではなくて、思い切り寄り目にして覗くと飛び出してくる3Dの絵本の模様のように絶対的であって、絶対的すぎるゆえにそこには実はない物なのではないかと思わせるような、そんな奇妙な感覚なのでした。
ひとつひとつの行動を丁寧に確認して日々を過ごすこうこを、301の女の人はひとり遊びが好きな子なのだと解釈しているようでした。
そんなある日、雪が降りました。
こうこは買ってもらった真新しい毛糸の帽子に赤い長靴をはいて、廊下で遊んでいました。朝早く、誰も起きていなかったので、ふきっさらしのコンクリートの廊下にはうっすらと雪がつもって、ふかふかの雪景色でした。
「こうちゃん、一緒に足跡つけようか」
301の女の人に手を引かれて、こうこはよちよちと206の部屋から201の前まで歩き、とうとう転ばずに踊り場まで辿り着きました。
「ほら」
301の女の人は振り向いて、ふたりで歩いてきた足跡をこうこに見せました。ふかふかの、粉砂糖が積もったような白い廊下に点々とつく自分と母親の足跡を見たとき、こうこは、この景色をわたしは知っている、と強く思いました。
いま初めて見たのではない、思い出せなかっただけで、知っていたんだと。
色んな足跡がまざってみぞれみたいになってしまった踊り場も、自分の赤い長靴も、自分たちの部屋まで続くこの足跡も。「ほら」と言った母親の声も。そう思ったとき、こうこは泣き出してしまいました。
「どうしたのこうちゃん。何も怖くないのよ。ママとこうちゃんの足跡よ」
301の女の人の「どうしたの?」が耳の奥でこだまするなか、こうこはずっとめそめそ泣いていました。
301の女の人に運気が向いてきたのは、彼女が長い風邪を患ったあたりでした。
その2カ月ほど前から、トヨトミさんの部屋に女の人が訪ねてくることはなくなっていました。月曜日と水曜日だったのが月曜日だけになり、それが隔週になって、とうとう来なくなってしまったのです。
301の女の人は体が弱かったので、熱を出したりはしょっちゅうでしたが、一週間単位で寝込むということはこれまでありませんでした。
あまりに高熱が続いたので、トヨトミさんは、こうこを自分の部屋で寝かせ、301の女の人には薬を飲ませ、食事なども作ってくれていました。こうこを独りにはできないので、食事を作るときだけ、こうこも一緒に部屋に戻りました。
トヨトミさんがおかゆを作ってくれているときに、301の女の人はか細い声で、
「昔、一緒に暮らしていた男が一度だけ、わたしのためにスープを作ってくれたことがあるの」
と絶え絶えに言いました。正確には一緒に暮らしていただけではなく、男は301の女の人の元夫で、スープを作ったのも一度や二度ではありませんでしたが、ともかく301の女の人はそう言いました。
「そう、優しくしてもらったんだね」
トヨトミさんは、昔の男の話に逆上するような幼いタイプの男ではありません。
「別に優しかったわけではないの」
301の女の人が曖昧に否定すると、トヨトミさんは笑いました。こうこはその会話を座布団の上でうとうとしながら聞いていました。
「死んだの」
301の女の人は、ぽつりと言葉を漏らしました。こういうことを無計画に言う301の女の人にこうこはちょっとむっとしました。
「そうか」
トヨトミさんが変に同情しなかったことや、大げさに驚いたりしなかったことは、こうこにとって、トヨトミさんを評価すべき点でした。
「ともかく、食べようか」
この言葉もこうこは大変気に入りました。
ただ。
まもなく何かが始まるな。
目を閉じながらこうこはそんなことを考えていました。
米が煮つまっていく、甘く芳ばしい匂いが、湯気とともに部屋中にたちこめていました。

2012/02/10 05:46:22
公演中止から10ヶ月、『戯伝写楽』の特別な五日間
2012/02/09 23:46:43
ネットカフェ、2300円。
2012/02/07 06:54:01
恋愛禁止もガマン/だってAKB48だから
2012/02/07 05:39:35
「福島の子どもたちからの手紙~ほうしゃのうっていつなくなるの?」発売します。
2012/01/29 10:05:02
期間限定!元・朝日新聞東京本社編集局長・外岡秀俊氏による文章教室、開校。
2012/01/23 10:20:44
AERA English 2012年3月号の内容は!
2012/01/22 14:19:12
16、「年賀状」考
一行コピー, 内藤みか, 押切もえ, K野, AERA English, 中島かずき, 内田かずひろ, 木村恵子, 恋愛, ロダン, ハングリー, 食べ物, 福井洋平, 山田厚史, バルセロナ, 映画, japan photo project, Tina Bagué, ジャパン・フォト・プロジェクト, ティナ・バゲ, 森本徹, 飯島奈美, 尾木和晴, 結婚, ゆきちゃん, 田岡俊次, 高井正彦, aera english, ロダンのココロ句, 太田匡彦






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