第十四回
その晩はトヨトミさんが、残った仕事を片付けるため自分の部屋に戻っていました。
こうこが夜中に目を覚ますと301の女の人が体を起こして、ベッドの上でひとり泣いていました。
カーテンの隙間から薄い蒼色の雲が、まるで天気の悪い夕方のように明るく浮かび、それでいて月の見えない晩でした。
「変な夢を見たの」
トヨトミさんとのことで悩んでいるのではなさそうな様子でした。301の女の人はこうこに気がつくとこうこを穴があくほど眺めて抱き寄せると、
「わたしは絶対、こうちゃんのことを忘れたくない」
と、震えた声で言いました。
こうこは変なことを言う、と思いました。母親が自分の子のことを忘れるなんてまずないと思ったからです。
こういうときは、「わたしのことを忘れないで」と言うのではないでしょうか?
次に301の女の人は言いました。
「あの猫、いま死んだわ」
それも、家にいる子猫のことではなさそうでした。子猫はこうこと301の女の人の間でくうくう寝ています。
「あのね」
もうずいぶん長い時間泣いていたのでしょう、女の人の頬には涙の筋がいくつもあり、髪はぼさぼさでした。301の女の人はぽつりぽつり話しはじめました。
「夢の中で、その人が出てくるのは三回目っていう設定なの。
ほんとうは全部が初めてで、その人に会うのも初めてだったんだけど、夢の中ではもう昔からの大親友で、古い古い友人なの。それでその人とどこかに行ったりする夢も、もう何回も見てる設定なのよ。
夢の中の一回目は、異国のだだっぴろい広い道路を、自転車を押しながら二人で歩いているの。
肌寒い夕方で、夢の中では十一月だった。
夕方から夜になっていく一番寂しい空の色をしてたわ。でもね、ママとその友達は不思議と寂しくなかったの。ふたりで一緒にパリに行こうっていう約束がかなって、二人こうして異国の地を一緒に踏んでいることが幸せなの。でもね、ママ、パリには行ったことないけど、多分そこはパリではないのよ。パリっていう設定になってるけど、あれはきっと違う景色なんだわ。
だって広々とした芝生の中に、高速道路を2つくっつけたくらいの太さの道路が一本ゆうゆうと通ってるのよ、そんなのパリにはないわよねぇ。
ともかく一回目は、その道路のつきあたりにあるオープンカフェみたいなところでマフィンだかを買おうとするところで終わったの。なぜかお会計を、自動販売機みたいな投入口に入れなきゃいけないのにサイズの合うコインを持ってなくて、ふたりで寄せ集めたお金で食べられるだけのマフィンとカフェラテを買って一緒に食べたの。
二回目は、地球がこれで終わるっていう日で、最初は助かろうと試行錯誤するんだけど、途中でふたりとも潔くあきらめて、みんなが「これを着てれば助かるカッパ」と言っている雨具を着てテントみたいなところに避難しているのに、ママたちは土手の上にビニールシートを広げて、寝っころがって星を見てるの。すごくきれいだった。そこも寒かったわ。そして日本だった。
それで最後は......最後って言ってもほんとうは全部をいま見たのよ。何度も言うようだけど、夢の中でそれが三回目っていう設定だったってことなの。
それもまたヨーロッパのどこかの街で、古い建物に入ってる寮に、ふたりは住んでいる学生なの。そこは街っていう設定なのに、だだっぴろい花畑が街の真ん中にあって、寮の隣から入れるの。背丈ほどもあるひまわりの畑だった。
空気が乾いていて、花たちも元気なんだけどとても乾燥してて、誰かが『こういうときはすぐに火事になるから注意してね』って言った途端に、乾いたひまわりの葉から、またたくまにメラメラと火が燃え移って、あたり一帯大火事になるの。
ママと親友は息も絶え絶えに逃げ延びて、近くのカフェに避難するの。さっき言ったように、街中に花畑があるから、すぐそばが大通りなの。無我夢中で逃げているはずなのに、燃えていくひまわりを見ながら心の中で、『さっき水遣りしとけばこんなことにならなかったのかな』なんて思っているの。
カフェはガラス張りで、そこから燃えている火や、自分たちの寮や、その隣の病院などがよく見えた。たくさんの寮生がやけどをして担架で隣の病院に運ばれていたわ。
死んだりしてる人もいるはずなのにママと親友は、「ずっと来たかったカフェだから」って、そこでケーキを頼んで一緒に食べてるの。
非常事態すぎてそういう思考になっているのか、夢の中だからそういう不条理なことになっているのかわからないけど、ともかく一緒にケーキを食べたわ」
301の女の人は、大きくため息をつくと、ちゅん、と鼻をかみました。
こうこに向かって話してはいましたが、夢の中で起きたことを自分で確認するために話しているような、実際はこうこは二の次のような、それでいてきっとトヨトミさんではなく、このことはこうこにこそ聞いて欲しいのだというような、そんな感じでした。
「そこまで見たときにね」
301の女の人は、ものすごく悲しそうな顔をしました。今までいくつも301の女の人の、儚い顔や切ない顔や、心がツキンとなった顔を見てきましたが、「悲しそう」という表現がこれほどあてはまる顔は初めてでした。
「前に住んでたアパートで飼ってた猫が現れてこう言ったのよ。『絶対に忘れないでって言ったのはあなたなのに、さっさと忘れちゃうんだから』って。その瞬間ママは、その猫が、親友だったその人だってことに気付くの。でも猫が言ってることの意味はわからないの。
それでわたし訊いたの。
『絶対に忘れないでって、わたしが言ったの?』って。
そしたら猫が言うの。
『言ったのよ。今のあなたに生まれ変わるまえに』
どういうこと? って訊ねたら猫は答えたの。
『あたしたちがふたりとも死んで、心だけが浮遊してる時間に、今度どこの国の誰に生まれ変わるんだろうねって話をしてたら、あなたが、生まれ変わったら今のことは全部忘れちゃうのかな? って言って、わたしがそれはそうじゃない? 新しくゼロから始めるんだからって言ったら、あなたが、いやだいやだわたしは絶対忘れない、あなたと親友だったことも、一緒に過ごした時間も、お互いがそれぞれ好きになった男の人のことも、仲たがいしたまま死んじゃった双子の妹のことも、あたしは絶対忘れない! って言ったのよ。
でも、あなたの方が早く生まれ変わることになって、心が新しい体に仕舞われたら忘れてしまったのよ。
わたしはずっと覚えたまま生まれ変わって、西勝寺であなたがわたしを拾ったときから、いつになったら思い出すのかなって思ってたのに、ずっと思い出さないんだもの。わたしは猫に生まれたから記憶を失わなかったのかもしれないけれど』って」
言いながら301の女の人はまた、大粒の涙をぽろぽろこぼしはじめました。かけぶとんが、涙を吸って冷たくなっていました。泣きじゃくりながら話す言葉を拾うのも容易ではありません。
「猫は...、言ったの。『あたし、今日でこの世が終わりだから、一応この世でもあなたと長い時間を一緒に過ごしたことをあなたに言っておこうと思って』って......。
『あたしの子供をよろしくね』
『あなたは前の世で、ものすごく長い間ひとりの人と恋愛して、すごく愛されて幸せなくせに、次生まれ変わったらたくさんの人と情熱的な恋をしたいわなんて言ってたのよ。
でも、もうそろそろ堪能したんじゃない? そろそろゆっくり大切な人と時間が過ごせるといいのにね』
それからこうも言ったの。
『あたしの子供に名前をつけてね。ミュウミュウって名前よ。
あたしが、飼ってたラブラドールにハーレーって名前をつけたときあなた言ったんだから。
わたしならもっと可愛らしい動物を飼って、可愛らしい名前をつけるわって。
例えばリスとか? ってあたしが訊いたら言ったのよ。
リスは嫌い、ミュウミュウっていう猫でも飼うわ、って』」
わたし、親友の生まれ変わりの猫に名前もつけなかった。
「それでもやっぱり夢にでてきた親友は、知らない人なの。いくら思い出そうとしても懐かしくないのよ、そのことが悲しいの。でもあの猫と過ごしたたくさんの時間が一気に甦ってきて、それはとても懐かしくてなんだか変な気持ち」
301の女の人はもう一度こうこを抱きしめました。
「だからこうちゃんのこと忘れたくないの」
だって、もう、五分の三くらいだと思うから。
よくわからないことをつぶやき、すやすや眠っている子猫に向かって301の女の人は言いました。
「ミュウミュウ。あなたのお母さん、いま亡くなったのよ」
そしてその猫はわたしの親友だった。301の女の人は、めそっと泣きました。
次の事件はそれから数日後のことでした。301の女の人は、亡くなった(であろう)猫のお墓を作り、夢の一件は落ち着きをみせていました。
ときどき思い出したように、
「仲たがいしていた双子の妹は、今は誰なのかしら?」
とつぶやき、蕾かしら、それとも薬屋で同僚だった彼女かしら、もしかしてこうちゃんじゃないわよね、などと妄想しているのでした。
そして、いつものように買い物を済ませ、こうこがパンの耳をおまけしてもらい、家まで戻ってきたときです。トヨトミさんの部屋の前に、あの女の人が立っているのをふたりは見つけました。月曜と水曜訪ねて来ていた女の人です。
「まさかあの人だったりしないわよね...?」
妄想を続けながらも、301の女の人の足取りは浮かなく立ち止まり、こうこの手をひく指先が急に冷たくなるのをこうこは感じました。
呼び鈴を鳴らしてもトヨトミさんが出ないので、女の人はこちらに向かって引き返し、こうこたちに気がつくと、「ひさしぶりです」というようにふわりと微笑み、会釈しました。
301の女の人はあまりうまく笑えていませんでした。
部屋に戻っても301の女の人は落ち着かない様子で、こうこは寒い冬の夕方だというのに、吹きっさらしの廊下で遊ばされました。様子を窺うためです。
女の人は階下の郵便受けの横にある肌色の公衆電話から、誰かに電話をしているようでした。そして戻ってくるとかばんからカギを出し、手馴れた様子でドアを開けると、トヨトミさんの部屋に入っていってしまいました。女の人が部屋に入ったところで、寒空の下で遊ぶ親娘というお芝居も終わりになりました。
301の女の人は堅い表情で黙って夕飯を作りました。トヨトミさんの分はありませんでした。希望を少なめに盛る301の女の人らしい行動だと思ってからすぐこうこは、違和感を覚えました。
この女の人はその逆の種類の人間ではなかったでしょうか?
ないと分かっていてもあるように振舞うような、閑散とした枝のその先に花を見るようなそんな人だったはずです。
301の女の人は傷ついたというよりは諦めに近いような顔をしていました。そういうものだというような顔です。こうこは月日が301の女の人をすこしずつ変えたことを知りました。
「夢を盛って水を吸わなきゃ。その先の枝に花がつかないじゃない」
西勝寺の少女なら言ったはずです。けれど、301の女の人の口から出た言葉はこうでした。
「ご飯にしましょう。あのひと今日はここに帰ってこないわ」
301の女の人が行動開始したのは夕飯もお風呂も終わって、こうこが寝る時間でした。
パジャマを着たこうこの手を引くと、301の女の人は隣の呼び鈴を鳴らしました。
「はあい」
返事をしたのは女の人でした。
「夕海です」
301の女の人はわざと下の名前を名乗りました。
「となりの」とかそういった装飾を一切つけませんでしたので、ドアの向こうで「夕海さんて方よ」などというやりとりが小さく聞こえたあと、トヨトミさんがドアを開けました。
「どうしましたか?」
まるで患者に対するような、あきらかに奥の女の人を意識した、よそよそしい対応です。
やけに馬鹿でかいトヨトミさんの口調に、301の女の人はさすがに腹がたったようでした。
「どうもしません」
その不穏な口調にトヨトミさんは困り、奥の女の人は揉め事かなにかと思ったらしく、奥からちらちらこちらの方を見ていました。
「どうかしましたか? というのはどういう意味なの?」
301の女の人は食い下がりました。トヨトミさんはますます困った顔をして、小さく「すまない」と謝り、
「その件でしたら後でこちらから伺います」
と、やけに大きな声で言うとドアを閉めてしまいました。
こうこと301の女の人はドアの前でしばし呆然としていました。冷たい風がパジャマをすりぬけ、こうこの体がブルっと震えました。301の女の人は我に返ったようでした。
「ごめん。寒いね」
301の女の人はこうこを抱き上げると、自分の腕で冷えたこうこを温めながら、ほんの隣の自分の部屋に戻りました。ドアを開けるとき301の女の人は言いました。
「これで夕飯を作っていたら、もっとがっかりするところだった」
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