第十五回
トヨトミさんが例の女の人を連れて現れたのは、一時間後のことでした。
こうこは眠かったのですが、301の女の人のことが心配で、頑張って起きていました。
呼び鈴が鳴ったとき、301の女の人は落胆や失望を通りこして、諦めという心境に到達していました。
にもかかわらず、呼び鈴にはっとしてしまう自分に、ますます苛立っているようでした。
ドアを開けた301の女の人の無表情に対して、トヨトミさんはどことなく落ち着かない様子で、例の女の人はほがらかな表情をしていました。
状況が読めないな。こうこは冷静に思いました。
「長くなりそうだから、あがってもいいかな」
トヨトミさんが訊ね、301の女の人は感情のない動作で促しました。
「さきほどは失礼な態度をとってしまい申し訳ない」
部屋に上がると、ただちにトヨトミさんは謝りました。301の女の人はその潔い態度が予想外だったようで、びっくりした顔をしていました。しかし次に続いた言葉は、301の女の人をさらに驚かせました。
「これは、娘です」
そう言うとトヨトミさんはしばらく黙っていましたが、このままでは状況を説明するに足りないことに気付くと、あわてて言葉を付け足しました。
「妻は、いません」
今度は、娘に対して失礼だと思ったらしく、困ったように添えました。
「そういう意味じゃないんだよ、萌(もえ)」
萌さんは、ふわりと微笑むと父親に向かって「いいの」と首をふり、301の女の人に向かって言いました。
「母は十年前に他界しました」
つっかえつっかえのトヨトミさんの話をまとめると次のようなことでした。
萌さんは、トヨトミさんが医大生の頃に同じ医大生だった奥様との間にできた子で、二人は学生結婚をしました。奥様のご両親は、トヨトミさんが娘と寄り添う腹があるのならという条件のもと、結婚資金や医者になるまでの費用については、奥様のご両親が持つことになりました。
奥様は個人病院の一人娘でした。
トヨトミさんは無事試験にも合格。晴れてお医者さんとして自立しましたが、奥様は萌さんが十歳のときに病気で亡くなってしまいました。詳しい事情は伏せられていましたが、手の尽くせぬ難しい病気のようでした。
奥様が亡くなった後も、トヨトミさんは義父母の病院で内科医として患者さんを診つづけるつもりでした。若い頃お世話になった分の恩返しをご両親にしたいと思っていましたし、萌さんにとっても、それがいいことだと考えていました。
「開業したいのならしてもいいんだよ、君をずっと縛り付けておくつもりはない。君はほんとうによくやってくれた」
あるとき義父が勧めてくれたことがきっかけで、ずっと夢だった診療所を小さな町に開業することになったのです。
トヨトミさんの話をこうこは興味深く、301の女の人は少し切なく聞きました。医者であるトヨトミさんの半生と、医者の娘である301の女の人の歩いてきた道は、どこか重なるところがあってもよさそうなのに、まるで別世界の出来事のようなのです。
301の女の人は、トヨトミさんをとりまく人たちが心豊かで、優しい人ばかりであることを少し羨ましく思いました。
それらは、もちろん地に足をつけて歩んできたトヨトミさんの生きかたの賜物なのです。
道が違えば出会う草木が違うように、刹那的に、感情的にしか生きてこなかった自分の歩いてきた道では、濁ったものや尖った気持ち、偽ったものや繕った感情ばかり拾ってしまうのは、当たり前だと、301の女の人も分かっているのに、やっぱり少し、トヨトミさんが羨ましいのでした。
301の女の人は自分も医者の娘であることを言えませんでした。
萌さんは「例の女の人」と思って見ていたときは、白い肌ばかりが匂いたつようで男を惑わす謎めいた存在に見えましたが、娘として接してみると、すれたところのない、よい育ちのお嬢さんでした。落ち着いた振る舞いは大人びて見えましたが、実際は二十一になったばかりでした。
開業してからのトヨトミさんの暮らしは、ちょっと視点を変えればすべて合点がいく話です。
自分の大学がアパートから近いこともあって、朝から大学がある前日は、父親のひとり暮らしを心配した娘さんが様子見がてら泊まりに来ており、ここのところ姿を見せなかったのは、期末テストが終わり、学校が休みになったからでした。
「どうしても娘に、あなたとのことを言い出せなくて」
トヨトミさんの優しい性格を思えば納得がいく話です。トヨトミさんは父でありつづけようとしたのです。そして、母親は亡くなった妻であることを、萌さんには感じつづけていてもらいたいのでした。
今回は札束を持った赤い口紅の女が現れる気配はありません。
こんなにも誠実で清潔な言葉や空気に満ちた部屋で、ホッとしながらも、何か悪いどんでん返しがまだ自分を待っているのかもしれないと危惧してしまう301の女の人は、やはり尖ったものや錆びたものをたくさん飲み込んできたからこそ、いまの自分があるということに思い至るのでした。
「父はもう充分、母を愛しましたから。愛する量に充分というのも変ですけど、わたしも母のいない今を生きていますし、父も母のいない今を生きていいと思うのです」
萌さんは自分と似たところがあるな。こうこは思いました。特に「母のいない今を生きている」という意味で、紛れもなくこうこはそうなのです。こうして隣で母が笑っている今でさえも。
具体的にとか現実的にとかではなく、精神的に、それはそうなのでした。
部屋にはさきほどまでとは打って変わって、暖色の空気が満ちていました。まるで壁紙を変えたみたいです。
トヨトミさんが二人の部屋に置いたままの日本酒で酒盛りが始まりました。
細かいしゃぼん玉が一気に空に放たれるように、301の女の人は笑っていました。
「わたしの人生で、こんなにいい意味のどんでん返しって、かつてあったかしら」
もうこの言葉も三回目です。けれど本当にそうなのです。
こんなにシンプルに、幸せな方向から彼女に光が射したことがこれまであったでしょうか? 彼女を照らしていたのはいつだって西日でした。
沈む夕日に向かって大海原を、それでも愛を求めて進んでいくその様は、ひと言で表すと美しい破滅でした。ためらうことなく、いつだって裸足で歩いてきましたが、それだけ大きく傷も受けたのです。
図らずも301の女の人と旅を続けてきたこうこは、しんみりと言葉を聞きました。
301の女の人は、トヨトミさんと萌さんにもあの夢の話をしはじめました。
今回は前回と打って変わって楽しそうなトーンです。
「わたしね、思いついたの」
301の女の人はほろ酔いです。
「こうちゃんの子供に生まれ変わるの。それでね、もし生まれ変わる直前に記憶を消されちゃうとしたら、その記憶が全部こうちゃんに届くように願うわ。親友の猫がわたしにそうしたみたいに。いい考えでしょう」
部屋は和やかです。萌さんもずいぶんお酒が強いようでした。だんだんと眠くなってきていたこうこでしたが、女の人の言葉が胸にささり、はっと目がさめました。
少し酔っ払ってきた301の女の人に頭をくしゃくしゃとされながら、「これも知ってる」とこうこは思いました。
「何を言ってるんだ、夕海。こうこちゃんが子供を産む頃、夕海はまだ五十にもなってないよ? せいぜい初孫を楽しみにしてるおばあちゃんてとこだと思うなあ」
トヨトミさんがからかい、萌さんも笑いました。
とてもとても幸せで楽しい会話でしたが、こうこだけが胸をしめつけられる思いでそれを聞いていました。
「それにそんな簡単に人は生まれ変わらないんだぞ。生まれ変わるにはたくさんたくさん時間がいるんだよ」
トヨトミさんの声は優しく、萌さんはほがらかで、部屋は暖かく窓が曇るくらいでした。外は冷えて中は暖かい。
あたりまえのことなのに頭の中が澄みわたる感じがしました。ミュウミュウがこうこの太ももに顔をすりよせました。
おまえは全部をわかっているの?
こうこは心の中でミュウミュウに話しかけました。外は冷えて中は暖かい。
「わたし、すぐに生まれ変わるもの。そしたらこうちゃんとまた繋がっていられるの」
301の女の人は一生懸命に話していました。301の女の人が一生懸命言えば言うほど、それは愛らしく間が抜けて、心もとないおとぎ話のように響くのでした。
「だから、そのころまだ夕海は五十歳なの」
その言葉に、301の女の人は何度も笑顔で、頑なに首をふりました。

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