中島桃果子[クラムボンと猫]

2010年03月01日

第十六回

 トヨトミさんの部屋にこうこたちが引っ越しをしたのは、ちょうどその一週間後のことです。
 ドアからドアまでたった一メートルの引っ越しですが、萌さんも手伝いにきてくれました。四人と一匹は、もうほとんど家族といってよいのでした。
 元の部屋にはじきに若いカップルが越してきて、トヨトミさんとこうこたちが別々に住んでいたことなどなかったかのようです。301の女の人は絨毯のサンプル作りをしなくてよくなりました。好きなことなのでしばらく続けていましたが、トヨトミさんにカメラを買ってもらってから写真を撮ることに熱中しはじめると、サンプル作りの内職は辞めてしまいました。
 毎朝、トヨトミさんを送りだしてから部屋の片付けや掃除をして、301の女の人はこうこと一緒に出かけます。近くの商店街にある上原写真にフィルムを預けて現像してもらうのです。現像を待つ間、スーパーで買い物をしたり、こうことお茶をして時間を潰します。焼き上がる時間を見計らって写真を取りにいくと、彼女はまっすぐ家に帰ります。301の女の人は決してその場で写真を見ません。
 家まで大切に持って帰って、出来映えを確認する瞬間を、301の女の人はとても楽しみにしているのです。むろん、たいした写真はありません。こうこの寝顔を撮ったものや、部屋の中をなんとなく撮ったもの。昨日の晩御飯や、着替えているトヨトミさん。玄関のドアを開けた萌さんをふいうちで撮ったもの。
 そして301の女の人は必ず自分も一緒に写りました。
 どこかに置いて撮ってみたり、右手を少しだけ入れてみたり、片足でなんとかバランスをとって左足の親指を入れてみたり。ですから、ほとんどの写真に女の人の体の一部が、間違えたように写りこんでいるのです。髪の毛だけが写っているものや、顔が半分に切れているのもありました。それでも写真のどこかに自分が「いる」ということが、彼女にとっては重要なことのようでした。
 それらを確認すると、301の女の人は満足気にうなずいて、写真をヨックモックの箱に仕舞います。彼女は写真を一枚も捨てませんでした。
「こういうふうに無意味に思えるものが、誰かにとって大切な何かに一瞬にして変わることがあるのよ。少なくともわたしはそれを知ってるの。いつかこのピンボケの写真も、何にも代えがたい宝物になるわ。そしてそうあってほしいと、わたしは願っているのよ。いい? こうちゃん。『残す』ことはとても意味のあることよ」
 微笑んで写真を仕舞うと、301の女の人は気まぐれにケーキやクッキーを焼いたり、洗濯物にアイロンをかけたり、ときには立ち寄った萌さんとお茶をして、夕方までを過ごすのでした。要するに、301の女の人の日々は、幸せと言っても過言ではないのでした。
 301の女の人は、部屋のどこかに小さくキズをつけたりすることも好きでした。
「これはわたしがつけたキズよ」
 301の女の人は誇らしげに、電話機の背後に貼られたメモ用紙をめくって、なにか尖ったもので壁に小さく書かれた「夕」の文字をトヨトミさんに見せました。トヨトミさんは笑ってその横に小さく「トョ」と刻み込みました。次に萌さんが来たときに「*」のような形が足され、キズは「夕トョ*」になりました。
「ここにみんなで一緒にキズをつけたこと、引っ越しても忘れないでね」
 301の女の人は笑顔で念を押し、みんなは「夕トョ*」を胸に刻みました。

 曇りない笑顔の増えた301の女の人でしたが、時折、思い出したようにふさぎこんでは、夕方の一時間、二時間を驚くほどぼんやりと過ごすことがありました。
 彼女が何を思い、そうしているのかは分かりませんでしたが、301の女の人がその時間ずっと、自分の心臓の音を聴いているのだということは知っていました。
 自分の鎖骨のあたりに手をあてて、すう、と息を吸いこんでから大きくはくと、彼女は憂鬱そうに「いやだわ」と言います。
「こうちゃんに遺伝してなきゃいいけど」
 301の女の人はこうこを抱き寄せると、こうこの小さな心臓の音を確認します。
 トクン、トクンという、小さいけれども規則正しい心臓の音を聴くと301の女の人は安心するようでした。
「大丈夫。こうちゃんのはママのようにおぼつかなくないわ」
 どうやら301の女の人の心臓は、ときに動悸がして苦しくなったり、またときには、心臓の音がとんだり、遅くなったりするようでした。鼓動が早まって苦しくなることはめったにありませんが、一度起こった後は死んだように眠って長く起きられませんでした。
「フルマラソンを走った後みたいになるのよ」
 走ったこともないくせに、301の女の人は一生懸命説明しました。鼓動がとんだり、ゆっくりになるのは日常茶飯事で、秋や冬の、寒い日が続いたのに急に暖かくなった日や、低気圧が近づいて明日は雨になりそうだという曇りの日などは、心臓が重くなって、すべての動きがなにもかもゆっくりになるのです。
「怠け者だと思われたくないの」
 洗うことができないままトヨトミさんを迎えてしまった食器や、こうこが散らかしたままの部屋などを眺めながら、301の女の人はソファにぐったり身を沈めて、憂鬱そうに言いました。頭の中では301の女の人の力になりたいと思ってますので、こうこは一生懸命手伝おうとするのですが、なかなかどうして、こうこが片付けようとすればするほど部屋は散らかってしまうのです。
 トヨトミさんは、もちろん怠け者だなんて思ったりしていません。叱るどころか、疲れやすい彼女の身体をとても心配していました。
「この身体には慣れてるの」とだだをこねる301の女の人を、トヨトミさんは無理やり診察した上に、知り合いの循環器系のお医者さんに頼んで詳しく検査もしてもらいました。
 けれども、
「絶対になにも出ない」
 と言い切った301の女の人の言葉通り、検査結果は異常なしでした。
「これではわたしがただの怠け者だと証明しただけじゃないの」
 301の女の人はむくれていましたが、それでもトヨトミさんは心配していました。
 ふたりが一緒に住むようになってから、女の人が我が儘になったことをこうこは嬉しく思っていました。今までの彼女はいつもぎりぎりで全身全霊で、尽くしこそすれ、相手にむかってむくれたりする余裕はなかったのです。301の女の人が我が儘になれるということは、彼女が安心して日々を過ごしているということでもあったのです。
 ですから、理由をこうこは考えていました。
 301の女の人がふさぎこんでぼんやりするのは、単に身体が不調なことを憂いているわけだけではない何かがあるような気がしたのです。トヨトミさんと301の女の人の間に、不穏な点は見当たりませんでした。では何がそんなに彼女を憂鬱にさせているのでしょう。
 答えは出ませんでした。あるとき青い翡翠(カワセミ)に出会うまでは。

 カワセミを見たのは、とりたてて特別なことのない曇り空の朝でした。
 寒くも暖かくもない冬の日で、301の女の人の体調は悪くも良くもなく、いつものように写真を現像に出そうとふたりは一緒に歩いていました。
 小さな川にかかる橋の上で、301の女の人は緩んだマフラーを巻きなおしていました。
 そのときです。鮮やかな青緑が眩しい、スズメほどの大きさの鳥が、川のはじに植えられている木の枝に、ちょんと止まりました。カワセミです。全体に白っぽい、燻された銀色の景色の中で青緑は映えていました。こうこは、いつだったかトロッコ列車に追い越されたバスの中から見た、ターコイズブルーの渓流を思い出しました。
「雌だわ」
 隣で301の女の人が息を飲みました。そして繋いでいる手をぎゅっと握りました。
「ほら、くちばしが赤いでしょう? あれ雌よ」
 カワセミは、微動だにせずじっとしていました。
 301の女の人はカワセミをしばらく見ていました。おそろしく長い「しばらく」でした。
 途中から繋いでいる手が緩んで、こうこがここにいることすら忘れているような印象を受けるくらいに。
「雌だわ」
 301の女の人はもう一度言いました。それは確認というより、何か決意のようなものとして、その言葉を借りてしている、という感じでした。
 大きく息を吸うと、301の女の人は「帰りましょう」と言いました。そしてかばんからカメラを取り出すと、こうこを一枚撮りました。
「これはわたしが持っていく分」
 彼女が言っていることの意味は、やっぱりこうこには分かりませんでした。
 301の女の人はフィルムを現像に出さず、カワセミは微動だにしませんでした。
 
 部屋に戻ってきたとき、時計の針はまだ十時を指してもいませんでした。
 301の女の人は黙りこくったまま、洗濯やら掃除やらをひと通り行いました。こうこも静かにひとり遊んでいました。
「昔に一度、雌のカワセミを見たことがあるの」
 再び301の女の人が口を開いたのは、十一時半を過ぎた頃でした。
「実家の近所の川だったわ。そのときも、カワセミはじっとしていた。ちょうど自分の寿命がここいらへんかなあなんて、漠然と思いはじめた頃だった。じっと動かないカワセミを見ているうちに、なんだか『悔いなく行動しなきゃいけない』って強く思ったの。『時間があるうちに』って。それですぐに村を出たのよ」
 こうこは301の女の人の膝の上に座って、じっと話を聴いていました。右耳を彼女の胸に押し当てて、ドクン、トクンという不規則な鼓動を感じながら、いつか西勝寺の前で出会った少女のことを思い出していました。「自分があまり長く生きられないような、そんな気がしているの」そう言った彼女のことを。
「それでわたしね、いつかもう一度雌のカワセミを見るような気がしていたのよ。そしてそのときは----」
 301の女の人は少しのあいだ黙りました。
 そのときは何なのか、こうこは即座に訊ねたかったのですが、やはり言葉になりませんでした。301の女の人は、自分に向かって伸ばされた小さな手を優しく握りながら続けました。
「戻らないといけないときだと考えていたの。あのひとたちから遠く離れたまま、旅を終えてはいけない気がするの」
 あのひとたちとは、富田医院にいる祖父母のことだとこうこは察しました。朴訥だけど優しい祖父と、鼻歌が好きで和裁の得意な祖母のことだと。
「でも言い出せない」
 301の女の人はきびしい顔をしました。
「ふたりとも優しいから。言ったら一緒に来てくれるかもしれない。でもそこまで甘えることはできないわ。これはわたし自身の問題だもの」
 301の女の人は涙をこぼしました。こんどのふたりがトヨトミさんと萌さんのことを指していることは言われなくても分かります。
 こうこは彼女が時折、夕暮れの中で呆けていた理由を理解しました。
「ずっと正しい答えを探していたんだけど」
 今日カワセミを見たわ。答えが見つからないままに。
 301の女の人はうなだれました。

『少しの間、実家に帰ります。突然でごめんなさい、でも心配しないで。愛しています。挨拶もなくてほんとうにごめんなさい。失望させたいわけではなかったの。一緒に書いた壁のキズを忘れないで 夕海』
 301の女の人が、こうこを連れて家を出たのは三日後のことでした。
 わずかな荷物とお金だけを手にして、ふたりが電車やバスを乗り継ぐ度に、景色が目のはじを流れていきました。
 視界のどこかしらに入るマフラーのひらひらは、こうこにヨックモックの箱を思い出させました。それは部屋の電話台の脚の部分を定位置にしていました。残された写真と過ごすトヨトミさんを想うと、胸が締め付けられるのを通りこして、折れてしまいそうでした。
 301の女の人は唇のはじをきゅっと結んで、ずっと窓の外を眺めていました。窓の向こうにはいつか見たターコイズブルーの水面が広がっていました。
 微動だにしない301の女の人の横顔に、こうこは三日前の青いカワセミを見ました。
 ああ、そういえばこの橋を渡って街に出たんだっけ。
 ぼんやりとそんなことを思いました。

 森を抜けて辿りついたのは、田んぼの真ん中にぽつんとあるバス停でした。ふたりはそこで降りました。
 遠くには見慣れた公園が小さく見えます。あの公園を抜けたら富田医院があるんだ、こうこは思いました。
 不思議なことに田んぼは青々として、あきらかに初夏の風情でした。ふと見上げると301の女の人はマフラーをしていませんでした。そして随分と清々しい顔をしていました。
 マフラーはどこに行ったのでしょう? 家を出るとき301の女の人はマフラーをしていました。唇をぐっと噛んで、真っ直ぐ歩く彼女の眼から次々と零(こぼ)れる涙がマフラーのニットに弾かれて、繋いだこうこの手に冷たく落ちていました。確かに301の女の人はマフラーをしていたのです。
 しばらく進むと、閑散とした田んぼの中にひとり女の人を見つけました。
 女の人は田んぼの中に敷かれた、平均台ほどの幅の小道を歩いています。前に会ったことがあったように感じましたが、誰か思い出せませんでした。
「帰ってきたの」
 そのとき突然、301の女の人がその女の人に向かって言葉を投げかけました。
「えっ?」女の人は聞き返しました。
 強く風が吹いていました。「帰ってきたの」
 301の女の人はこうこを抱き上げ、右手で背中をぽんぽんと叩きました。その瞬間こうこは急に眠くなりました。
 なんだろう? このやりとりを知っている。けれど、そのことを追求したいと思えば思うほど、猛烈な眠気がこうこを包み込むのです。
「おめでとう」
 301の女の人のスカートがはたはたと揺れ、布のはためく音が耳の奥で響きました。
 頭の中で、言葉と記憶が混じりあって、あたかも束ねた写真が一瞬だけ表情を見せながらバラバラとほどけるように、頭の中に舞い落ちていきました。
「バスに乗るのよ」
 眠気はどんどんとこうこを支配していきます。最後に301の女の人がつぶやく声が聞こえました。
「猫は行ってしまったの」

中島桃果子

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