中島桃果子[クラムボンと猫]

2010年03月15日

第十七回

 黒くがっちりした梁が支える天井には、黄色い電球の光が生み出す、カラスの形をした影が映し出されていました。寝返りを打って目をこらすと、暗い田舎の闇の中に金属の取っ手が浮かび上がってきます。手を伸ばして触れると、古い抽斗にぶらさがっている取っ手は「かちゃん、かちゃん」と聞いたことのある音をたてるのでした。
 抽斗のついた桐箪笥は、祖母がお嫁に来るときに、曾祖母が一万円で買った嫁入り道具です。一緒に嫁に来てから祖母と同じだけ傷やら汚れやらを吸い取り、同じだけ年を重ね、子供の成長を見守り、桐箪笥はここにいるのでした。
 まぎれもなくここは、こうこが育った祖母の寝間です。
 こうこはそうっと起き上がり襖を開けました。豆電球だけがつけられた居間では、テーブルの上に夕飯の残りが置かれ、懐かしい小さな台所用の蚊帳がかけられていました。「長生きの心得(こころゑ)」と書かれた祖父の湯のみだけが、流しにつけるのを忘れられたまま、その隣に置かれていました。
「六十歳で迎えが来たら、まだ早いと言へ。
 七十歳で迎えが来たら、ぼちぼち支度をすると言へ。
 七十五歳で迎えが来たら、そう急かすなと言へ......」
 こんな調子で百十歳くらいまで続く心得が書かれた湯のみで、祖父はお茶を大事に飲むのです。
 居間を挟んで隣の障子を少し開けると、そこには予想通り祖父が、静かに神棚の方へと頭を向けて、すうすう寝ていました。
 何もかも馴染みのある光景です。ひとつを除いては。
 こうこはまた自分の寝間に戻りました。こうこの腰くらいの位置にあったはずの襖の取っ手は、今、ちょうど目線の高さです。
 襖を開けると祖母の隣に、たったひとつだけ馴染みのない景色が転がっていました。301の女の人です。
 まるでかぐや姫みたい。
 こうこは思いました。彼女がここで眠っていることそのものが、月からやってきて月に帰っていくかぐや姫と同じくらいにこころもとなく、稀有に感じたのです。301の女の人のまわりだけ、少し違ったふうに光って見えたくらいに。
 布団に戻ると、こうこに気付いたのか気付かないのか、301の女の人は寝返りを打ちました。

 二人はバスを降り、懐かしい公園を抜けて富田医院に帰ってきました。青々とした田んぼ側から公園に入るところにある銀杏の木は、金色に色づいた葉をはらはらと散らしていました。青々とした水田に金色の枯れ葉。こうこはまた小さな違和感を感じました。ブランコの脇を通り、水場から寺を抜け、そういえば以前ここを通ったときは、旦那さんと食べたぎんなんのことを考えていたことを思い出しました。あれから随分と旦那さんのことは忘れていました。301の女の人に手を引かれ、よちよち歩き、言葉もろくに話せない幼児が旦那さんのことを考えているということは奇妙だ、と他人ごとのように思いました。
 バスを降りてすぐ、ひとりの女の人に会いましたが、どうもこの村の人ではなさそうでした。それからは誰にも会いませんでした。相変わらず何匹かの猫がたむろしている西勝寺の松の木の脇を抜けると、もう富田医院です。
 301の女の人は、小さく息を吸って踏み出そうとしました。けれども、その必要はありませんでした。一服するために祖父が診療所から出てきたのです。祖父はすぐに301の女の人に気付きました。脇にちょんと立っているこうこにも。
 突然のことだったので、301の女の人も言葉が出ませんでした。長かったのか短かったのかすら分からない、深い沈黙がありました。その後、祖父は我に返ったようにはっとすると、
「そうか。うん」
 小さくつぶやき、煙草に火もつけず診療所の中に入ってしまいました。
 診療所の中の小窓から離れに向かって、「おい! おい!」と祖父の声が聞えて、そこから出てきたのは祖母でした。
 祖母は女の人を見るなり、「あんたは......なんもかもが突然やね」とつぶやきました。
「何をぼけっとしてるの」
 301の女の人は祖母の声で我に返ったようでした。
「この子はこうこです」
 小さな声で女の人は説明しましたが、祖母は聞いてもいませんでした。
「そんなのあと。早く入りなさい」
 半ば叱るように言って家に入ってしまった祖母を、項垂(うなだ)れながら見ている301の人の顔は、これまでに見たことがないくらいにあどけないものでした。横に立っている自分の方が、よっぽど大人びた顔つきをしているだろうとこうこは思いました。そして、そんな甘酸っぱい顔つきを覚えることなく大人になった自分を、はじめて少しうらめしく思いました。
 それほどに301の女の人の顔は無防備で、無条件に愛を与えてくれる誰かに向かっていたのです。それがたとえ、許しを請う、であったり、関係を修復する、といった複雑な状況下であっても。
 301の女の人は、勝手知ったるはずの食卓にちょこんと座って、途方に暮れていました。
「なんであんたが困ってるん。突然出てったり、突然戻ってきたりして困るのわたしたちの方よ。ようそんな子供のままで、母親になったもんやね。どうするの、今から。あんたのもんはもう何もないよ、茶碗も箸も」
 黙ってしまった301の女の人に半ばあきれながら、祖母は言いたい放題です。
「ごめんなさい」
 301の女の人はとりあえず謝りました。その場を凌ぎたかったわけではなくて、その言葉しか思いつかなかったのです。
 十数年ぶりに自室に戻った301の女の人は、その手入れの行き届いた、褪せない自分の部屋を見て泣き崩れました。
 家具の位置ばかりか、そのとき机に置いていった鉛筆すらそのままに、部屋は301の女の人を待っていたのです。
 先ほどとりあえず謝った301の女の人でしたが、部屋を見てますます、どんな言葉で母に向かえばいいか、詫びればいいか、分からなくなって顔をあげることすらできないのでした。
「いつまでもぴーぴー泣いてないで、夕飯の支度、手伝いなさい。ぐうたらは家には置いておけないよ」
 祖母の声がすりガラスの引き戸越しに聞こえました。
 ほこりをかぶったオルガンがこちらを見ていました。

 祖母と祖父の会話を立ち聞きしたのは、その夜のことです。
 301の女の人は長旅と緊張のせいで、疲れてぐっすり眠っていました。口には出しませんでしたが、身体にも大きな負担がかかったに違いありません。
 一方、こうこは301の女の人の小さな娘として過ごしたこれまでの日々に、自分が良く知る祖父母の家や、祖父母が加わった現在の状態に対する奇妙な感覚をぬぐえず、頭が冴えて眠れずにいました。襖越しにぼつぼつ話す声が聞こえました。
「生きとったな」
「ほんとにねえ」
 祖母が答えました。
「子供を生めたというのは奇跡ですよ」
 祖父がうなずいたような間がありました。
「それでお父ちゃんは、どう考えているんですか? どんな風に夕海に接しよう思ってるの」
「どんなもなんも」
 祖父は答えました。
「水に流したりであるとか、なあなあというのはわしは嫌いじゃけど、いつ夕海がどうなるかもわからんところで諍いをしても得にならん」
 ふたりのため息が聞こえました。
「お父ちゃん、それをわかって夕海は戻ってきたんでしょうかね」

 301の女の人が大きく体調を崩したのは、三日後のことです。ただの風邪で、彼女の心臓とは関係ありませんでした。
 むつかしい顔をして祖父が診察していると、「ほんとに手の焼ける子やね」と祖母は叱りました。
 けれども薬を飲ませたり、ご飯を食べさせたり、二人は「夕海」の様子が気になってしょうがないようでした。
 祖父母が過ごした空白の十数年というのはきっと、言葉にはできないほどの思いがあったに違いありません。
 その中には苛立ちであるとか、諦めであるとか、不甲斐なさや失望感、むしろそれらが複雑に入り組んだ、よくわからない感情がみぞおちのあたりに絶えず重たくあったに違いありませんが、二人はそれをまったく表に出しませんでした。
 こうこは祖父母にすぐになついて、うまくやっていました。当然です。自分を育ててくれた祖父母と、実家ともいえるこの家で過ごしているのですから。
 こうこは家中をくまなく見て回りましたが----それは祖父母の目には子供が好奇心で動き回っているようにしか見えなかったでしょう----祖父がきちんと整理しているアルバムは「S51」までしかありませんでしたし、この家の代々が大きくなるごとに身長を刻んできた居間と台所を結ぶ境目の柱に、こうこのキズはありませんでした。二十歳になってひとり暮らしを始めるまで、こうこの成長はこの柱に刻まれてきたのに、「ユウミ 七サイ」であるとか「ノリアキ 十五サイ」です。ノリアキは祖父の名前です。
「ユウミ」のキズは十七歳で止まっていました。
「こうこも測ってやろう」
 興味深く柱を眺めているこうこを見て、祖父が言いました。祖父はこうこの背中が柱にあたるように立たせ、ものさしをこうこの頭に乗せると、柱にぶつかった部分に尖ったもので線を入れ、「コウコ 三才」と刻みました。これが初めて刻まれたこうこの成長です。こうこはトヨトミさんと萌さんと301の女の人が刻んだ「夕トヨ*」を思い出しました。そして301の女の人と祖父には、よく似た点がいくつもあることに気がつきました。
 301の女の人は、片時もカメラを手放しませんでした。トヨトミさんにもらったカメラです。彼女がトヨトミさんや萌さんのことを、それこそ片時も忘れず想っていることは確かでしたが、実家に戻ってきて憑き物が落ちたように、すっきりした顔していることも確かでした。
 夕方ときおり301の女の人はこうこを連れて、向かいの公園をぶらぶらしました。
 十数年前と変わらずどっしりと生えた松の木や、世代は変われど同じように集まってくる猫たちを見て、301の女の人が何を考えていたのかはわかりません。
「ぐるっと一周するって、何も変わらないってことなんだわ」
 301の女の人はときどきそんなことを言いました。彼女は「何も変わらない」と言いましたが、それが言葉通りの意味であるとはどうしても思えませんでした。何も変わらない、と言う度に変わったことを探しているようにも思えたのです。
 そうしているうちにいつも日が暮れ、診療所の白い扉がカランと音を立てて開き、祖父が301の女の人に向かって「おい」と声をかけました。それは「そろそろ夕飯だぞ」という意味です。寺の奥の方から子供たちの笑い声に混じって、「赤とんぼ」の音色が村に響き渡りました。
 
 そんな日々がひと月ほど続いたある日のことだったでしょうか。
 ミュウミュウが帰ってきたのは。
 301の女の人は体調がすぐれず、パジャマを着たまま、みそ汁を飲んでいました。玄関の方で「ひゃあ」という祖母の声がして、同時に、居間に子猫が入ってきました。
「ミュウミュウ!」
 301の女の人は思わず呼びかけて、その後で小さく「にそっくり......」とつけたしました。
 ミュウミュウであるはずがないのです。
 こうこと301の女の人は、電車やバスを乗り継ぎ、それはもうたくさんの景色を目のはじに流して戻ってきたのです。子猫にできる業ではありません。
 けれどもそれはミュウミュウでした。
「あらあ」
 祖母のすっとんきょうな声が、それを教えてくれました。
「夕海、夕海」
 祖母に呼ばれて301の女の人は、ミュウミュウを抱いて勝手口に向かいました。富田家の玄関は勝手口より奥にあるため、立派な玄関があるというのに使われることがほとんどありませんでした。
「どうも」
 そこに立っていたのはトヨトミさんでした。帽子を脱ぐと、トヨトミさんは祖母に向かって頭を下げました。小さなトランクを持っています。
 どうやってここを知ったのでしょう?
 どういった心持ちでここを訪れたのでしょう?
 分からないことはたくさんありました。
 唯一分かることは、この子猫はミュウミュウで、目の前にはトヨトミさんが立っているということなのでした。

中島桃果子

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