朝倉かすみ[ぜんぜんたいへんじゃないです。]

2009年10月13日

もともとないもの

 東京に仕事場を借りた。どのくらいの割合になるかまだ分からないが、今後は札幌と行き来する。東京にいるあいだは、「独り暮らし」となる。齢49にして初めての独り暮らしだ。部屋を借りるのも初めてだった。
 まずは賃貸マンション検索サイトで当たりをつけた。家賃が予算内におさまって、ある程度広さがあって、駅から近いか、あるいは駅までの道順が分かりやすいところがよかった。「分かりやすい道順」はわたしにとってもっとも重要だ。
 方向音痴なのである。小樽から石狩に越したときには、学校から家まで帰れなくなったことさえある。東西南北の感覚がないうえに、距離感覚もない。「通り」の名前も覚えられない。いや、名前は覚えられるのだが、それが実物と(なぜか)一致しない。地理を立体的に把握できないのだ。
 だから、道案内もたいへん下手だ。こういう人間にかぎって、他人にしょっちゅう道を訊ねられるというのはよく聞く話で、わたしも例外ではない。どうしてこんなに、と訝しく思うくらい訊ねられるのだが、じつはさほど迷惑には感じていない。
 他人に頼りにされることが極めて少ない人生を送っているので、頼られるのがちょっと嬉しいのである。わたしだって、だれかの助けになりたいと思って生きているのだ。
 だから、道を訊ねられたら、全力で答える。たまに勘で答えることもあるが、わたしの場合、地理はもともと勘でしか捉えていないので、そんなに変わらない。たとえば、こんなふうだ。
「あそこの薬屋さんの前を、若干不安になるくらい真っ直ぐ歩いて行くと、もとはパン屋さんだったお蕎麦屋さんがあって、そこを過ぎると、俄然曲がりたくなる角が出現するので、そこを右に曲がって、夏のあいだはブルーを基調にしたガーデニングをしているお宅の横っちょを入ればすぐです」
 わたしにとっては、非常に分かりやすい説明だ。なので、「わたしにしか分からない」という点に気づくのが遅かった。最近はもう少しましな説明をするよう心がけているので、ある程度安心してお訊ねください。
 さて、検索サイトで当たりをつけたいくつかの物件について、仲介業者(不動産屋さん)に連絡を取った。不動産屋さんに行ったら、担当者の名のなかに「文字」という漢字が入っていたので、縁起のよさを一方的に感じ、このひとについていこうと決心した。
 実際に見た物件はふたつで、そのうちの一件に決めた。感じがよかったからだ。部屋の「感じ」もよかったが、エントランスから部屋に着くまでに行き合ったマンション入居者のみなさんの「感じ」がとてもよかったのが大きかった。にこやかに会釈してくださる。郵便ボックスに書かれた名前も、(たとえば)佐藤とか田中などの一般的なもので、そこもよかった。
 というのは、もうひとつの物件のほうは、郵便ボックスに表示されている名前が、なにかこうアーティスティック(カタカナ+漢字、あるいは、アルファベット+星や花)で、なおかつ書体もみょうにアーティスティックなものが多かったうえに、マンション全体がしーんとしていて、「暮らし」から遠い印象を持ったからだ。
 そうして、契約を済ませ、電気やガスや水道や電話開設の手配をして、家具を見繕う段になる。
 繰り返すが、初めての独り暮らしである。あこがれの独り暮らしといってもいい。大人になったら、こういうお部屋に住みたいなあ、とこどものころに夢想していたインテリアを実現できるチャンスがようやっと巡ってきたというわけだった。
 ひとことでいうと「舞踏会から帰ってきてくつろぐプリンセスのお部屋」である。天蓋付きの巨大なベッドがメインの家具だ。よく弾むスプリングのマットレスに皺ひとつない清潔な敷布がかかっていて、ふわふわの大きな枕が三、四個あって、布団ももちろんふわふわで、布団カバーにはどっさりフリルが付いている。そこに、すてきなランプ、すてきな棚、すてきな鏡などがすてきに配置されていて、基本色は白とピンクと金色だ。
 このイメージの欠点は、実現するのが難しい点だ。イメージそのものがあまり具体的ではないからだ。しかも、寝室に特化している。「天蓋付きの巨大なベッド」のうえで、ごはんをたべたり、仕事をしたりするのは、そりゃあ、やってやれないことはないけど、ぎゃくに貧乏くさくないか? というか、そのような方向の「すてき」な部屋では、現在のわたしはたぶん落ち着けない。いわずもがなだが、わたしはプリンセスではないし、舞踏会に招かれることもない。いまのわたしの「すてき」はもっとあっさりしている。
 もちろん、「あこがれ」は残っている。舞踏会から帰ってきて、羽根のように軽いナイトウエアに着替え、髪をとかし、ちょっとお行儀はわるいけれど、あぶくのようなあくびをして、ベッドに入り、目を閉じる、というシーンは、お恥ずかしいが、もしかしたら、わたしの永遠の「あこがれ」なのかもしれない。いまでも、やっぱり、もっとも贅沢なシーンなのだ。
 家具を選んでいるときに思い出したのが、河合塾くん(仮名・東京都・26歳)の意見だった。
 以前、知り合いに「定額給付金の使い道」について、アンケートを取ったことがある。そのときに頂戴した回答のひとつだ。
 念のため、「定額給付金」を説明しよう。住民基本台帳に記録されているか外国人登録原票に登録されているひと(短期滞在者は除く)が対象で、世帯主(外国人の場合は個人)が申請すれば、ひとり1万2000円(18歳以下、65歳以上は8000円増)が給付される麻生政権下の経済施策事業のひとつである。すでに懐かしい感じがするが、そんなにむかしの話ではない。生活費の補填とされたかたもいらっしゃるだろうが、「もともとないもの」と捉えたかたもいらっしゃるだろう。河合塾くんは後者のタイプのようである。
「特に何に使うとかは決めず、商品を選ぶ時などに普段よりもグレードの高いものを選ぼうと思います。普通のラーメンではなくワンタン麺、普通のパーマではなくアイロンパーマ、普通席ではなくプレミアムシート。特に計算しませんが、差額が1万2000円に達したと思った時点でやめます」
 東京に仕事場を持つことは、わたしの新しい「あこがれ」であり「贅沢」だった。こどものころのプリンセス部屋と異なるのは、「すてき」の尺度が変わらぬうちに「ほんとう」になった点である。とはいえ、どちらの「あこがれ」や「贅沢」も、「もともとないもの」にはちがいない。もともとは、わたしの胸のうちにしかなかったのだ。家具にかかった費用が予算をちょっとオーバーしたのは、「ほんとう」になったか、ならなかったかの「差額」だったような気がする。河合塾くんと同じく、特に計算はしませんでしたが。

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