中島桃果子[クラムボンと猫]

2009年11月30日

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第十回

 最初にいなくなったのは猫でした。もともと猫で始まった恋です。もういちどいなくなったらそこで終わりのような気が、初めからしていました。
 こうこは体調を崩して寝ていました。夫は出かけてしまいました。
 今は一体いつなのでしょう。昨日眠りにつくまえに彼からプロポーズされて、数時間眠って起きたのではなかったでしょうか? それにしてはたくさんすぎる記憶が頭をかすめていきます。自分がこのアパートへ来てから、いま目覚めるまでには、ずいぶんといろんなことがあった気がするのでした。
 重たい身体を起こして風呂場をのぞくと、隅っこにちょんと置いてあるプラスティックの濃いピンクの手桶は、予想通り傷だらけでだいぶ古びていました。
 そうね、そのとおりだわ。
 こうこは思いました。ここにきてから今までで、新しい象の手桶をこの風呂場の隅に置いた最初の日が一番幸せで、一番希望に溢れていたと。
 わたしの考えはいつもそこに舞い戻ってしまう。だから起きたとき、つい昨日の今日のような気がしてしまった。こんな風になるなんてほんとうにもう、いよいよ終わりかもしれない。
 希望や幸せの大きさを手桶で量ることなど、こうこならしないはずでしたが、もはやそのことにすら気がついていませんでした。こうこはこうこであってこうこでなくなってしまったのです。
 よろよろと布団に戻り、かび臭い掛け布団を頭まですっぽりかぶって無音の中にいると、時計の音だけが一定の時間を刻んでこうこの耳に届いてきます。この規則正しい音が一つ鳴る度に自分の時間が減っていく。
 ちっ。ちっ。ちっ。ちっ。
 こうこは寝返りを打ちました。聞きたくないと思えば思うほど、音は凄みをまして耳に届いてきます。こうこは手をお腹にあてて、赤ちゃんの心臓音を確認しようと思いましたが、手にはわずかな振動も感じることができませんでした。
 この人だと思った人が、この人でなかったということを肌で感じることは哀しい。
 それは聞こえないフリをしても耳に飛び込んでくる時計の音のように、抗うことができないものなのです。
 けれど、期待するということを諦めたくはないわ。生きることを放棄するのと同じだもの。こうこは唇をかみました。
 猫はどこに行ったのでしょう。身重の猫でした。時を同じくしてこうこも子どもを授かりました。西勝寺のメス猫と呼ばれたあの頃から自分を知っている、一緒に村を出てきたあの猫を、自分の分身のように思っていたのに。
「次にやるときはひきかえしっこなしだよ」
 同じ薬屋で働く同僚はこうこにそう言いました。薬屋では、娼婦として使っていたミィキという名前でなく、アヤメという名前を使っていました。夫にプロポーズされたとき、
「あなたの本当の名前を教えてください」
 そう言われて、とっさに彼が愛していたという女に似た名前を名乗ってしまったのです。彼が愛した女性は綾乃(あやの)という名前でした。男を喜ばせたい一心で安っぽい嘘をつくきらいが、昔からこうこにはあるのです。こうこであって西勝寺のメス猫でもある女の、ということになるのですけれど。
 夫はそれを運命のいたずらだと喜びましたが、それからときどきこうこのことを「あやの」と呼び間違えるようになりました。そして呼び間違えられているうちに、こうこ自身、彼にとっての自分が綾乃なのかアヤメなのかがあやふやになっていきました。
 彼はそのことに全く気付いていませんでした。こんなことになるなら、いっそ同じ名前にしたほうが不幸も幸せも一緒くたになってよかったのかもしれません。そして昨夜、妊娠を告げたこうこに彼はこう言ったのです。
「嬉しいよ、あやの」
 もちろん夫だっていつも自分の中に綾乃を見ていたわけではありません。もともと結婚生活を、「希望と絶望、半分半分で、ほんの少しだけ希望が多いところから始めよう」と言った人です。あるようでないものにのめり込んだりする人ではありません。
 それでも彼の心の中で完全に綾乃と自分を分かち、彼が愛す女として自分を認識させることができるとしたら、それは生身の自分が彼の元を去ったときなのだという気がしてならないのでした。そして、そのとき今にもまして彼が不幸になることを、こうこは知っています。
 身体はだるく、つわりとも風邪とも違う不調がこうこを支配していました。いつからでしょう、季節の変わり目や、気圧の変化にさきがけて、胸のあたりが重たくなる身体になったのです。きっと明日あたり雨が降るか気温がぐんと下がるだろうな。こうこは思いました。
 何か食べようと、やせた台所に立つと、夫がこうこのためにつくり置きしていったスープがありました。形の崩れた小さな豆腐が申し訳程度に入っている、味気なく、水っぽいコンソメスープに赤くて辛い調味料を入れた、舌触りだけがぴりぴりするスープです。それでも、紛れもなく夫がこうこのために作ったものなのです。夫はこうこの身体のことだけはいつも気にかけていました。
 こういったものたちが引き止めるから、難しいのです。ぶったり蹴ったりする男が、普段から冷酷であれば物事はもっと簡単なのではないでしょうか。そうではないから躊躇するのでした。一度引き返したあのときのように。
 錆びたベランダは、洗濯物もなく閑散としています。ステンレスでできた小さなミルク皿だけが、持ち主を失ってコンクリートの上にぽつり、佇んでいました。
 空は今日のこうこの気持ちを映しとったかのように曇っていました。ぴりぴりする舌を舐めながらこうこは考えていました。男と女の終わりというのは、果物や花が腐っていくようにぐすぐずになってしまうものなのだなあと。それでいてそのぐずぐずに強い愛しさを突発的に感じてしまうからこそ捨てることはたやすくないと。そのぐずぐずは、肉体の一部になってしまっているのです。
 彼のどうしようもない気性の激しさも、街中に紛れたときには簡単に見つけられないような、色褪せた顔つきやくたびれた襟元も、寂しそうな寝顔や冷たい手も、申し訳程度の優しさや水っぽくて辛いスープも、裏を返せばいまだってすべてが愛しいのです。「君を買い取りたい」と言った彼の言葉も。このアパートに初めて来た日のことも。それでいてすべてはもう、腐ってしまっているのでした。
 もし彼の元を去ってひとりで子どもを産んだなら、「嬉しいよ」と言った彼の言葉も表情もいつまでも忘れないでしょう。
 けれど前進したいのなら、彼を忘れないことを考えてはいけないのです。
 秒針の音が再びこうこの耳に届き始めてきました。こうこは自分に時間があまりないことを感じていました。悔いなく生きなくてはならないのです。そしてお腹の中には赤ちゃんがいるのです。
「次にやるときはひきかえっこなしだよ」
 それは誰かを巻き込んで、傷つけてたとしても、そうする価値があることなのでしょうか?

 そんなことを考えていると呼び鈴が鳴りました。ぼんやりとドアを開けたこうこは、びっくりして強くノブを引きました。が、その一瞬のすきをついて男は部屋に入ってきてしまいました。
「こんなとこに来ちゃだめ」
 こうこは咄嗟にそう言いました。けれど、嬉しいと思う気持ちを抑えられないのも事実でした。男は、こうこが働いている薬屋に出入りする業者でした。もっと言えば、一緒に働いている同僚の恋人でもありました。安っぽい化粧と派手な格好に似合わず聡明で洞察力のある同僚のことをこうこは好きでした。いつも「アヤヌ」とこうこに呼びかける舌ったらずな感じも。「ひきかえしっこなし」と言った彼女です。
 家まで送ってくれたこともあります。
 男は若く精悍で、一本気なところがありました。いつでもまっすぐで、情熱的でした。
 彼は、こうこの身体に夫によってつけられたあざや傷がないかをくまなく確認すると、「よかった」と、こうこを抱きしめました。
「店に出てないから、また旦那に殴られてるんじゃないかと思って」
 青年はこうこを離しません。こうこもまた、彼の手を振りほどけないでいました。
 本当は、薬屋で彼の熱っぽい目に出会ったときから彼に惹かれていたのです。
 同僚の恋人だということを知ったとき、すこしがっかりしたのも事実でした。
「今日みたいな日に来られるのは一番困るの」
 青年は漆黒の目の奥を光らせて言いました。
「どうして?」
 こうこは黙りました。青年は少しだけ強くこうこを抱きしめて、かすれた声で言いました。
「今日みたいな日だから来てほしかったはずだよ」
 その言葉を聞いたとき、こうこは恋に落ちました。恋とは本当に穴のようなものだとこうこは思いました。注意深く歩いているのに、たった一秒で落ちてしまうのです。今までもずいぶん穴に落っこちてきました。けれど何度落っこちてもそれを防ぐことはできないのです。
「どうしてそんなことを言うの」
 答えるこうこの声もかすれていました。もう後戻りはできないのです。青年に抱きしめられたまま、こうこはコンロの上の鍋を見ていました。水っぽくて辛い、豆腐の入ったスープの鍋を。夫がこうこのために作った鍋を。そのとき何かがこうこの中ではじけました。
「どうしてこんなことになってしまうの。まっすぐ生きているだけなのに」
 言ったとたんに涙がとまらなくなって、気がついたらこうこはしゃくりあげていました。
 涙と一緒にたくさんの思い出が流れていきました。猫を拾ってくれた旦那のこと。子どもたちに案内されながらこの街を抜け出そうとしたこと。ひきかえしてしまったときの子どもたちの傷ついた顔。「とんでもない女だね」と言った提燈屋のおかみさんや、目も合わせてくれなくなった蕎麦屋のおかみさん。「すまない」と言ってこうこに背を向けたその夫たち。
 肩身が狭そうだった母親や、村を出る前にいつまでも見ていた富田医院の看板のこと。
 この街についたバスから初めて降りた日のこと。
 前だけを見て振り返らないようにしてきたことばかり、やけにくっきりと思い出されて、きゅっとくくっていたはずの心の結び目が、一気にほどけてしまったみたいでした。
「僕はちゃんとあなたを見ているよ」
 青年は言いました。こうこはずっと首を振っていました。そして初めて知りました。本当は誰かに、自分を理解して欲しかったのだと。受けとめて欲しかったのだと。今までずっと、自分で決めて自分で進んできました。自分から恋してきました。相手の気持ちよりも自分の気持ちが大切でした。
「僕は彼女とは別れる。あなたと一緒になりたいんだ」
 こうこは消え入りそうな声でいいました。
「わたし、誰かを傷つけたいわけじゃないの。でも自分に嘘はつけないの。それにわたし、お腹の中に赤ちゃんがいるのよ」
 青年はびくともしませんでした。
「それがなんなの。僕はあなたのすべてを受けとめるつもりなんだよ」
 今回は、いままでとは違いました。こうこの気持ちを受けて、なんとなくの相手の反応があるのではなくて、これは彼の心からの選択です。絶望と希望と半分半分、絶望を少し盛りだくさんに生きてきましたが、ここには希望だけがあるかもしれない。たとえそうでなくても。挑戦することは価値のあることだわ。こうこは心を決めました。
「わかったわ。では街をでましょう」

 青年が帰ってすぐ、こうこは荷物をまとめました。ピンクの手桶は置いていくことにしました。傷だらけの象がこうこのことを見ていました。
 余ったスープが帰ってくる夫を待つのは耐えられなかったので、無理して全部飲み干しました。ぴりぴりは喉に、食道に、胃に、夫の最後の記憶を刻みました。
 身体が変調を知らせたとおり雨が降りはじめ、重たかった身体は少し楽になりました。傘をさし、錆びた階段をカンカンと降りながら、この音を聞くのも最後なのだなと思いました。
 青年が迎えにくるのは明日の夜です。それまで街のはずれのひなびたホテルに泊まることになりました。
 ホテルはがらんとしていました。初めて泊まるのにどこか懐かしいような気がします。
 301号室の鍵を渡され、絨毯敷きの階段を3階まで上がりました。
 そこで丸一日どう過ごしたか、覚えていません。
 いよいよもう少しで彼が迎えにくるというときになって、こうこは彼が一生迎えにこないような、ひとりで長い夢を見ているような気分になってしまいました。希望を強くもって何かに向かうということがあまりなかったのです。絶望の中に希望を探すというやり方に慣れていましたし、だからこそ向こう見ずになれたのです。
 少し開いた扉から、ぼんやり廊下を見ていると、宿泊客が上がってくるのが見えました。
 宿泊客は女性で、すきまからこうこをのぞくと「だいじょうぶですか?」と訊ねました。
 こうこは小さく頷きました。
「もうすぐ迎えにきてくれるの」
 なぜかそんな言葉を口にしていました。女性はまた頷きました。なぜだかわかりませんが、こうこは彼女に胸のうちを明かしたい気持ちになりました。他人であって他人でないような、懐にすっと入ってくるようなそんな空気を女性はもっていました。
「お腹の中に赤ちゃんがいるの......。でも......迎えにきてくれる彼の子ではないのよ」
 こうこは訊ねてみました。
「それはみんなにとって不幸なことかしら」
 彼女は少し黙った後、「おめでとうございます」とだけ言いました。
 こうこが何か言おうとすると、どこからか声が聞こえてきました。
「ありがとう」
 言ったのは301の女の人でした。その瞬間こうこは元のこうこに戻りました。301の扉を廊下からのぞいている宿泊客は紛れもなく自分です。
 ここに戻ったか。
 そんなことを思いながら、儚く微笑む301の女の人を、こうこは見つめていました。

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