中島桃果子[クラムボンと猫]

2010年03月29日

最終話(十八回)

 トヨトミさんは、二泊すると帰っていきました。その後、また一週間ほどしてからは、ずっとこの家にいることになりました。
 やってきた最初の晩、トヨトミさんは301の女の人の父親、つまりこうこの祖父と遅くまで話をしていました。どんな話だったのか、二人以外は誰も知りません。
 それなりの荷物と一緒にトヨトミさんが戻ってきた次の日から、富田医院にはふたりのお医者さんがいることになりました。寝たきりの病人がいる住まいにも往診ができるようになり、働きづめだった祖父にも休みができました。
 自分の休診日にはトヨトミさんに診察を任せて、まずは少し遅く起きると、ゆっくり祖父は煙管(キセル)を吸います。医者なのに煙草が大好きなのです。そのあと時間をかけて朝食をとってから、午後はこうこをおぶって近所のお宮さんや堤防をぶらぶらしては、自慢のカメラでこうこを撮るのでした。
 トヨトミさんが開いた診療所はどうなったのか、萌さんはどうしているのかなど訊きたいことはたくさんありましたが、もちろん訊くすべはなく、301の女の人は大事なことほど切り出せない性分ですので、何度も「あのね」と言っては、「あなたがくれたカメラに名前をつけようと思うの」であるとか、「あなたに新しいパジャマを買おうと思うの」と、関係のない話になってしまい、核心をつくことはできませんでした。というより、そのような勇気を持てない人なのでした。そもそもきちんと向かい合えるならば、置手紙を残して出てきたりしません。
 けれどもトヨトミさんは301の女の人のもつそういう臆病さを含めて、彼女を愛し、見守ろうとしてくれているのでした。
「何も心配しなくていい」
 そういってくれた男は、たしか前にもいたかもしれません。けれども今度こそ、ほんとうに何も心配しなくていいのです。自分の身体と、こうこのこと以外は。
 301の女の人の不安をぬぐうように、診療所を引き継いだ後輩のお医者さんから便りが来たり、萌さんが遊びにやってきたりしました。
 萌さんが滞在したのはたった一泊でしたが、はじめて四人と一匹で盃を交わした日のように、今度は六人と一匹で夜が更けるまで酒盛りは続きました。柱に萌さんも背の高さを刻み、トヨトミさんは酔っ払って早々に寝てしまいました。
 初めてトヨトミさんが萌さんに301の女の人を紹介した冬の夜、外は冷えて中は温かかったあの日に比べると、窓をあけると室内には程よく涼しい風が流れ込み、もうすぐ外の桜が蕾をつけそうです。
 トヨトミさんの評判は村でも上々でした。若くてかっこいいお医者さんというふれ込みです。
 トヨトミさんはそう若くもないのですが、六十をこえる祖父にずっと診てもらっていた村の人たちからすると、トヨトミさんは若いのです。いつのまにかトヨトミさんは、みんなから「若(わか)サン」と親しまれるようになりました。
「うまいことやったよ」
 白髪が増え始めたボタン屋のおかみさんの台詞です。相変わらず気持ちいいくらいにはっきりものを言い、それでいて嫌味なところはひとつもないのでした。あのとき301の女の人と駆け落ちをした息子は、いまだ行方知れずです。
 紅茶を入れてくれたホテルのメイドは、いま何をしているのでしょう。
『戦争はどこにでもあるんだよ』
 あれはいったい、いつのできごとなのでしょう。
 そんなことを考えながら、こうこがミュウミュウと遊んでいたときです。
 ふと目の前の鏡を見てみました。
 そこにいたのは、あの女の子です。乾いた足音で遠ざかっていった、あの女の子です。あのときと同じように子猫を抱いていました。
 そうか。
 思い返せばもう何度も、鏡に映る小さな自分をみてきたはずなのに、いま急にそのことに、こうこは気付いたのでした。こうこは小さくつぶやいてみました。
「思い出って、あやふやなものよ」

 そのときが来たのも突然でした。
「あびろ」という土地にある祖母の実家を訪ねることになったのです。301の女の人は戻ってから一度もその家に顔を出していませんでした。「きちんとしなさい」と祖母に叱られて、この日ようやく腰をあげたのです。
「あびろ」に行くには、西勝寺を抜けたところにある停留所からバスに乗って、五つほどの停留所で一度乗り換えなくてはなりません。
 そのあたり一帯を地元の人は「サズカワ」と呼んでいるのでした。
 こうこはずっと探していた「サズカワ」がこんな近くにあったことに驚きました。
 白く眩しい光に満ちている新春の午後で、301の女の人は白いワンピースを着て、白い日傘を差していました。
 空は高く、見上げた先が何色か知りたくとも、全体が白銀と言えるほどに陽の光の眩しい午後でした。
 バス停を降りて、別なバスが来るには少し時間がありました。
 301の女の人に手を引かれて信号を渡り、二人は坂のふもとにきました。
「何か買っていきましょう」
 そこにあったのは小さな駄菓子屋でした。
「昔おばあちゃんとあびろに行くときね、よくここでママ、駄菓子買ってもらったの」
 少し風が吹いて、301の女の人のスカートがふうわりふくらみました。
 同時に、ごちゃごちゃと並んでいる赤や黄色のセロファンの包み紙や、するめが入っている大きな透明のプラスチックの容器----それらに光がきらきら反射して、ひとつの水面に映る景色のように大きく湾曲し、揺れました。
 こうこは悟りました。ここが旅の終わりなのだと。
 そしてもう二度と、301の女の人のぬくもりや儚い笑顔、その透きとおるような存在に触れることはできないのだと。
 大きな白い光の中で301の人は優しく微笑んでいました。
 その手がほどけないうちに。
「お母さん」
 こうこが叫んだとき、駄菓子にたゆたう銀色の光と、301の女の人をとりまく白い光が混ざり合って、発光し、発光し、世界を飲み込んで、やがて、何も見えないという意味のまっ白になると、消えてしまいました。


 ふと気がつくと、こうこが立っていたのは、やはりサズカワの駄菓子屋の前でした。
 さっきと同じ場所ですが、さっきとは景色が違います。茶色く錆びていた信号は新しくなり、信号の奥に広がっていた畑の一部にはいくつも家が建っています。
 戻ってきたんだ。
 このようなことは今までもありましたが、なんというか漂っている空気が違うのです。今までのいびつにうごめいている時空の世界に比べて、ここではあきらかに、大気が、地球の引力に向かってきちんと整列しています。こうこは自分の手をみました。大人の女の手です。
 頭上でヘリコプターの音が唸りをあげました。
 しばらくのあいだ、こうこはぼうっと立ち尽くしていました。ふと左腕の時計に目をやると四時二分でした。いつも部屋ではいている柔らかい綿のズボンのポケットには、折りたたんだ千円が入っています。これも夢ではありません。旦那さんとサッカーの試合で賭けをして勝ったお金です。
 駄菓子屋だけがそのままでした。
 こうこはそこで三百円分の買い物をしました。祖母の好きなふ菓子と、母の好きなラムネです。301の女の人はラムネが好きでした。
 七百円のおつりをもらったとき、自分が母親の好きなお菓子を躊躇なく選ぶことができたことへの感慨と、けれどもそれを渡すことができないことへの悲しさが入り混じって、こうこは思わず大きく咳をしました。そうでなければ泣き出してしまいそうだったからです。
 さっき301の女の人と来た道を同じようにバスに乗って、祖母の家に戻りました。
 二百円だったバス代は、二百五十円になっていました。
 西勝寺の脇の公園は一部が駐車場になっていました。違和感はありましたが、ボタン屋のおかみさんがグレープフルーツを洗っていた水飲み場の脇を通り、富田医院の前に出ました。
 チリンチリン、と診療所の扉を鳴らして外に出てきたのは初老のお医者さんでした。
「こうこちゃん、久しぶりだね、どうしたの」
「若サンこそ、診察はもうおしまいなの?」
 あたりまえに挨拶を交わしてから、こうこは驚きました。そうです、ここにいるのは若サンです。富田医院にいるもうひとりのお医者さんで、小さな頃から親のように可愛がってくれていたおじちゃんです。けれどもこの人こそが、あのトヨトミさんなのでした。
「鈴さん。こうこちゃん来たよ」
 若サンが大きく母屋に声をかけると、祖母が出てきました。白髪で背中の丸い、こうこの良く知る祖母です。
「さっきね、サズカワの駄菓子屋にいたの」
 こうこが言うと、祖母は一瞬「そうか」と間をおいて、うなずきました。
「あそこなあ。まだ根強く残ってるなあ。夕海が小さい頃、ようあそこでお菓子買ってやったんよ。そうか。こうちゃん、そこに行ったんか」
 母娘でおんなじこと言ってる。
 こうこが少し笑うと、祖母は駄菓子の袋からラムネを見つけて言いました。
「こうちゃんもラムネ好きなんかい」
 こうこは言いました。
「それはお母さんに」
 祖母はこうこを見ると、「ほう」とつぶやき目を細めました。
 
 家の中に入ると、祖父が座り込んでなにやら夢中になっていました。俳句に凝りはじめた祖父は、決して粋なセンスはありませんが、好きでたくさん書いているようです。耳が遠くなっているので大きな声で「おじいちゃん」と話しかけると、しわしわの顔をあげて笑うのでした。
「こうちゃん、巴(ともえ)くんに何も言わずに来たんかい? 昨日から帰っていないってえらく心配して電話あったんよ」
 濃いお茶を入れながら祖母が言いました。巴くんとは旦那さんの名前です。
 たったの一晩のことなのでした。すべてが。
 それでも旦那さんがどれだけ心配したかを思うと、ちょっぴり申し訳ない気分です。仕事が終わる頃に連絡をいれよう、そう思って思わずこうこは声をあげました。
「あ、お土産を一つ買い忘れた!」
 ミュウミュウのお墓は、縁側から出た小さな桜の木の下です。

 こうこは旅のできごとを祖父母に話しませんでした。
 夕食を作ってくれると祖母が言うので、食事をしながら「こどもができたみたいなんだ」と話すと、祖父が下手な俳句を作って祝ってくれました。
「春立ちて我もひひじじいかがかな」
 誰よりも先に妊娠したことを祖父母に話してしまったので、旦那さんはちょっぴりやきもちを妬くかもしれません。
 団欒の合間にこうこはこっそり母の部屋に入り、押入れの奥にヨックモックの箱を見つけました。
 雪の日の長靴の写真、夕トヨ*、緑の屋根のアパートの写真......。たくさんの懐かしい写真が出てきました。トヨトミさんが富田医院に来てからの写真も増えていましたが、カワセミを見た日、301の女の人が橋の上から撮ったこうこの写真だけはありませんでした。
「これはわたしが持っていくぶん」
 お母さんの声が耳にこだましました。
 夜になって、旦那さんが息をきらしてこうこを迎えにきました。お母さんに会いに来たときのトヨトミさんのように。
 何から話せばいいでしょう。
 この、温かくて少しさびしい、おとぎ話みたいな旅のできごとを。
 しんと静まる田舎の夜を、旦那さんと連れ立って歩きながらこうこは考えていました。
 けれども言葉が見つかりません。
 春が近づく星のきれいな夜空の下を、旦那さんとこうこは手をつないで、いつまでも歩いていました。(完)

中島桃果子

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