ハングリー!~飢えてる私の心と体~

2009年01月12日

ハングリー!〜 飢えてる私の心と体〜 <56>

私のマンションまで歩く道すがら、私は大賀(たいが)との会話を頭の中で繰り返していた。
 
 
私の足は、地面の上にきちんと体重をかけて載っていた。大地を蹴って、進んでいた。今までは身体が今にも宙に浮きそうな、そんなふわふわした頼りない歩きかたしか、できなかったのに。
 
 
食べ物で身体が満ちていく。
今口にしたパンもスープも、私のエネルギーになって、全身を巡り始めている。食べるということは、こんなにも地球とつながっていることだったのだ。
 
 
そして私はマンションの前で、見慣れた懐かしい顔の男性と遭遇した。誰なのか、すぐには思い出せなかった。
 
 
「......久しぶり」
少しばつが悪そうに声をかけてきたのは、元恋人のマモルだった。
 
 
優しそうな、人の良さそうな彼。
結婚して一生連れ添っていくつもりだった落ち着いた瞳が、そこにあった。
 
 
「......びっくりした。どうしたの?」
「ちょっと用があって。電話やメールじゃなんだから、どうしてるかと思って、訪ねてみた。でも、留守のようだから帰ろうとしてたところ」
 
 
「ごめんね。ちょっと散歩に行ってたの」
私は駅前のカフェにマモルを案内した。
何度も一緒にこの街を歩いたはずなのに、そのことは遠い昔のように思えた。マモルのことをずっと思い出してもいなかったから。
 
 
殺風景な自分の部屋を見せるのはいやだった。幸福ではなかった日々を、勘づかれたくはなかった。それにもう、マモルは、部屋に入れるほどには親しい男性ではなかった。
 
 
カフェの中の客は、ほぼ全員が半袖だった。私が最初に奇妙な状態に陥っていた時は、長袖の人ばかりだったのに。
 
 
元恋人は、野菜のサンドウィッチとコーヒーを注文した。そして私に遠慮がちに何にする、と尋ねてきたので、同じものを、と答えた。
 
 
「食べられるの?」
「うん、そうなの」
先ほどトーストを久しぶりに食べたばかりなのに、動き出した胃袋は、それだけでは足りないと盛んに訴えていた。
 
 
「全然知らなかったよ。どうして教えてくれなかったんだ。心配してたのに」
「もうつきあいきれない」と私を放り出し、全く連絡も寄越さなくなった人に伝える義務はないと心の中で反論しつつ「ごめんね」と私は繰り返した。でも「ついさっき治ったのよ」と本当のことを言っても、信じてはもらえなかった。
 
 
「だったら会社に戻ってくればいいのに」
「無理よ。食欲のことはまだうまくコントロールできてないの。オフィスワークをするには、もう少し自信が必要かもしれない」
「でも退屈だろう?」
元婚約者は書類を取り出した。
 
 
「僕のデータ入力、手伝ってみる気、ない?」
「......」
私はその書類を見つめた。
そこには、個人情報を省いた顧客アンケートの束があった。
 
 
アンケートハガキが4枚ずつ、何十枚もコピーされている。これらをまとめる仕事だと説明された。彼はマーケティングの仕事をしていて、アンケートを頻繁に解析している。
これらのデータをPCに入力しておけば、男女比も出せるし、年齢分布も見えてくるので、入力を誰かにしてもらうことは、彼にとっては欠かせない業務のひとつだった。
 
 
でもコピーされた書類を見ると、せつなさがこみ上げてくる。こんな簡単な仕事、職場にいた頃は、私はやってはいなかった。アルバイトさんにおまかせして、私はプレゼンテーション資料作りや、企画会議に明け暮れていたのだから。
 
 
今の私ができることは、彼が推察しているとおり、自宅での簡単なデータ入力だけなのだ。食欲は戻ってきたけれど、まだ、職場にすぐに戻りたいと思えるほどには浮上してきてはいない。そんなに簡単にすべてが元通りになるとも思えなかった。
 
 
「急ぎじゃないから。できるときでいいから、やってみないか」
彼は言葉を選びながら、ゆっくりと語りかけてくる。気を遣ってくれているのだ。久しぶりに会ったのに、彼が何を考えているのか、手に取るようにわかった。
 
 
マモルとは、会社の同僚であった頃に、一緒に食べ歩きをするようになり、それからなんとなく交際するようになった。食べ物の趣味も合うし、となんとなく結婚を決めたのだと自分では思っていた。
 
 
でもこうやって向き合ってみると、息が合っているというのはこういうことなのかなという気が、してきた。私と彼の間には、特別な感情、言ってみれば阿吽(あうん)の呼吸のようなものが、流れていたのだろうか。
 
 
私が野菜のサンドウィッチを口に入れ、噛みほぐして嚥下(えんげ)していく。その様子を、彼は、信じられないというように目を見開いて、観察していた。
 
 
「うれしいよ。うれしいという言葉しか、出てこない」
「うん......」
見つめられて食べづらくなり、私は野菜のサンドウィッチを皿に戻した。
 
 
「ごめんね。心配かけちゃった」
「いいよ。こっちこそごめん。見ないから、ゆっくり食べて」
彼は慌てて目線を逸らした。
 
 
「それに、今までずっと連絡できなくて、ごめん。ほったからしてたわけじゃなかった。いつも、どうしてるかなとは思ってたんだけど」
彼のほうから、頭を下げてきてくれた。
 
 
「僕があんまり状態を尋ねすぎると、苑花(そのか)を焦らせてしまいそうで。だからしばらく距離を置いてたんだ」 
「......そう」
 私は素っ気なく答えた。一番辛かった、のたうちまわりたくなるくらいの孤独感に溢れていた時、私を助けてくれたのは、この男ではなかった。大賀だったのだから。
 
 
「でも食べられるというならよかった。もう式場を見学に行くこともできそうかな?」
「......え? 式場って?」
私は顔を強ばらせた。
「結婚しようって、言ってただろう?」
「その話は、なしになったんじゃないの?」
 
 
「誰がそんなこと言った? 僕は少し距離を置いたけれど、婚約を取り消した覚えはないよ。
ずるいと思われるかもしれないけれど、苑花が落ち着くのを待ってたんだ。今日会ったらずいぶんと調子が良くなってきているようで......感動して言葉がうまく出てこないよ」
 
 
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