ハングリー!~飢えてる私の心と体~

2009年01月26日

ハングリー!〜 飢えてる私の心と体〜 <60>

昼前の駅前通りはまだ人通りは少なかった。辺りは蒸し暑くなりはじめていて、私の背中にも、じんわり汗がにじんでいた。
 
 
店から出てきたのは、ハーブティーのボトルを入れたエコバッグをいくつか下げた大賀(たいが)だった。
 
 
そして彼の後ろからは、ひとりの女性がついて出てきた。彼女も同じようにエコバッグを両手に下げている。
 
 
透き通るような肌の色をしている繊細そうな女の子の、頬のうっすらとしたバラ色を見た瞬間、私は叫びそうになった。
桃奈(ももな)さんだったからだ。
 
 
「......あ」
大賀が私に気づき、近づいてきた。
「おひさしぶり」
「おひさしぶりです。新しいバーの経営者が、ハーブティーは使わないからというんで、引き取りにきたところですよ」
「彼女、元気になったのね。素晴らしいわ」
「ああ......」
大賀は、嬉しそうに目を細めた。以前抱えていた表情の影など、どこにもなかった。  
 
「毎日彼女を何時間もマッサージしていたら、2週間ほどで目を覚ましたんですよ。血行が良くなったから目を覚ましたのか、玄米スープが徐々に効いていったのか、理由はお医者さんにもわからなかったけれど」
僕がもっと早く、世話してあげていればよかった、と大賀はちら、と、後ろで様子を見ている彼女に目をやった。
 
 
「でも、彼女が1年近く眠っていたからこそ、僕は店をすることができて、たくさんの経験をしたし、彼女も眠っていたからこそ、今までの苦しみが癒されたと言っているから、すべては必要なことだった気がするんです」
少し離れた町の病院の近くに、可愛い一軒家を借りたんです、と彼は言った。その口調はとても幸せそうだった。
 
 
「1階を改装して、小さなカフェを始めるつもりです。病院のそばって、殺風景なんで、見舞いに来た人がくつろいだり和むことができるカフェがあったらいいよね、と、あいつと話して決めたんです。
今度はバーじゃなくて、ちょっとした食事もできるカフェを、ふたりでやっていきます」
「そう......よかった。すべてうまくいってるんだ」
 
 
「苑花(そのか)さんには感謝してます。いろんな意味で」
彼は真っすぐ私を見つめてそう言った。彼は私とのことを後悔してなどいない。それを感じられただけで、充分だった。だから、私も小さくうなずいた。大賀は、桃奈さんを手招きした。
 
 
「この人、苑花さんと言って、常連さんだったんだ」
「......そうなんですか。はじめまして」
桃奈さんはにこっと笑って私にお辞儀をした。無垢な笑顔だった。大賀の愛に包まれて幸せいっぱいに花のように微笑んでいた。
 
 
彼女は大賀の苦しみのすべては知らないし、この先、知ることもないだろう。私が彼女のパジャマを洗っていたことも、きっと教えてもらっていないのだろう。でもこの笑顔さえあればきっと、大賀は満足なのだ。
 
 
「がんばってね」
大賀はうなずいた。
「苑花さんも......」
「うん、がんばる」
私は歩き始めた。ちらっと振り向くと、大賀が店の木の扉に鍵をかける姿が見えた。もう、あのバーでノンアルコールカクテルを飲むことはないのだ。ぼろぼろだった心が癒されていった苦しかったけれど優しさが染み込んでいったあの時期は、もう、遠くなっていく。
 
 
私は近くのカフェに向っていった。
そこにはマモルが待っていた。
メールや宅急便でやりとりすればいいことなのに、彼は毎週わざわざ打ち合わせと称して、私に会いに来てくれる。
 
 
私は彼に発注されるデータ入力の仕事を淡々とこなしていた。少しずつ仕事量も増えていた。そして私の芯が、もっと大きな仕事をしたい、と疼(うず)き始めている。いつだって戻ってこれると思うよ、とマモルも言ってくれている。
 
 
私には、食欲を失っていた時期があった。けれど今は、当たり前のように食べていられる。そして当たり前のように自宅で仕事をこなし、当たり前のようにマモルが会いに来る。いつまでこの状態が続くかはわからないけれど。
 
 
先週、私はマモルに「やっぱり結婚しよう」と再プロポーズをされた。自分が本調子になってから、とその時はやんわり返事を先延ばしにしたけれど、今回は予感がする。きっと私たちは、結ばれるのだろう。
 
 
結婚することに、もう緊張も抵抗もなかった。たくさんのものを一時的に失って、最後に戻ってきたのは、マモルと結ばれることこそが自然なのかもしれない、ということだった。
 
 
大賀とのひととき、それは店と共に、私の記憶の中だけにしまいこまれていくのだろう。私にも大賀にも、あの彷徨(さまよ)っていた時間を共有することが必要だったのだから......。
 
 
いつの日か私は、当たり前のようにマモルと結婚するのかもしれない。きっと一番大切な人っていうのは、食べることと同じように、当たり前な存在なんだろう。そんな存在に、彼はなりそうな気がする。
 
 
当たり前のことを当たり前ではないと気づけた時に、人生はとても柔らかくなって、私に寄り添ってくれるのかもしれない。
 
 
 

 
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mika naito , novel , ハングリー , 内藤みか , 恋愛 , 食べ物

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