階段と手拍子
階段を降りるのが苦手だ。
とても時間がかかる。一段、一段、確認しながらでないと降りることができない。なにを確かめるのかというと、片ほうの足が下の段に着地しているかどうかだ。できれば、足の裏全部が踏み面に乗るのを見届けたいと思っている。「いま、右足が着地いたしました」と文章化できるほど明確に認識したのち、おもむろにもう片ほうの足を持ち上げ、下ろす。これがわたしの「階段の降り方」だ。
地面を歩くように階段を降りることができない。走るように降りるなんてもってのほかだ。だから、急げない。補足して繰り返す。たとえどんなに急がなければならない事態に遭遇しても、わたしは急げない。ああ、もう、電車が出ちゃうよ、これを逃すと遅刻決定だよ、というシーンでも、じっくりとした動きで階段を降りる。よそ見もしない。自分の足もとだけを凝視する。
あんまり見つめすぎるのと、「確認」を意識しすぎるせいなのだと思うが、階段を降りていると、「階段を降りる」という行為がどういうことなのか、不案内になる。足をかわりばんこに、持ち上げ、降ろし、踏み面に乗せる。それっぽっちの動作を反復するだけで、「階段を降りる」という行為になるのだ。なんか不思議だ。
つい、順番を間違ったらどうしよう、と不安になる。その前に、なぜ間違わないのだろう、と不安になっている。よく順番を間違えないものだと、ふと、思うからだ。やがて、「いま、着地したかどうか」が、ちょっとずつ分からなくなる。
この「ちょっとずつ」の感じがものすごくいやだ。ずれていくような気がするのだ。「いま、着地した」と認識した「いま」と、実際のアクションとのずれが広がっていくと思えてならない。
ライブで手拍子を打っていて、同じ調子で打っているはずなのに、いつのまにか、曲とも周りともずれていくときの感じに近いかもしれない。
自分の打った手拍子の音と、手を叩くというアクションとの時間差が、普段、あるいは手拍子を打ち始めたころよりも広がっていって、音がアクションを追いかけていると思えてきて、そしたら「手を叩く」というアクションが、赤ん坊でもできる単純なアクションにもかかわらず、ひどく不確かなものに思われてならないのは、ほんとうに自分が手を叩いているのかどうかがちょっとずつ分からなくなるせいだ。
両手を打ち合わせて音を立てるだけの行為を、よくもまあいつもは間違わずにできたものだと、ふと思うときには、なぜ間違わないのだろう、と不安になっている。いや、そのときにはすでに間違い始めているのだ。手と手を打ち合わせて音を立てるという行為じたいが、よく分からなくなっている。
本を出したあとの感じも、そのようなものだ。
どうしても、ずれがある。
書いているときと、一冊にまとまったときにタイムラグが生じるのはやむをえない。「いま、書いているもの」との時間差でいうと、ラグはもっと広がる。「最新刊」は、「いま、書いているもの」ではない。そうして、「音」はいつも遅れて聞こえてくる。読んでくださったかたの声がわたしに届くのは、いつも、最後だ。ラグはいよいよ広がる。「最新刊」なのにね。
「最新刊」と「いま、書いているもの」のどちらがいいものなのかは正直いって分からない。もちろん、自分では後に書いたもののほうがいいと思っているし、思いたい。だが、そうではないケースはけっこうあるし、気づかずに、間違った方向に進んでいるということもある。もしかしたら、すでに間違っているのかもしれない。足の裏全体を踏み面に乗せてから、もう片ほうの足を持ち上げているつもりでいるが、「つもり」だけということは充分考えられる。ゆっくりと階段を降りているのかもしれない、と思うと、ぞっとする。階段を降りるのは苦手なのだ。ただし、怖くはない。ほんとうのところ、間違うのも怖くないんだ。
1年1か月にわたった初めてのエッセイ連載も今回で最終回です。読んでくださったみなさま、ありがとうございました。メールをくださったかたにもお礼を。嬉しかったです。

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